2015年5月26日

漢字の世界

 歳のせいか、パソコンばかり使っているせいか、この頃、すぐに思い出せない漢字が増えた。もっと漢字に関心を持たなくてはと読み始めたのが、白川静の『常用字解』(平凡社2003)である。これがたまらなく面白い。日頃、よく使う漢字の背後に、三千年も前の人々の生活や思想が隠されているのだ。それを文字学の第一人者である白川静さんが、古代文字を基にして体系的に解明している。
 どう面白いかの例として、僕の名前の一字である「眞(シン)」を見てみよう。これは、人を逆さまにした形「ヒ(か)」と首を逆さまに吊り下げている「県」(下の小のようなのは、垂れ下がった髪の毛)との組み合わせで、顚死者すなわち不慮の事故にあった行き倒れの人を表している。こういう死人は、強いうらみを持っていて、その霊力が目に現れるから「瞋(いかり)」となる。「慎(つつしむ)」は、その瞋(いか)りの霊魂を鎮める丁重な心情をいうのである。親父も、このことを知っていたら、我が子の名前に使わなかったと思われるが、興味深いのは、その後の展開である。死者は、もはや変化するものではないから、永遠のもの、真の存在、真理の意味となり、「まこと」の意味となる。ここに、「人の生は仮の世で一時なものであるが、死後の世界は永遠である」という古代人の思想が読み取れるのだ。やれやれ、ここまで来て、やっと安心できる。
余談だが、永久の「久」は、死者を後ろから木で支えている字形である。これも死んで「永久の人」になるからである。
 このように漢字の世界は奥深い。一つ一つに三千年前の世界観が籠められている。それを現代の私たちが、何気なく使っているのだ。そして、知らず知らずのうちに何らかの影響を受けている。これって、ものすごく神秘的で驚異的だと思う。漢字語圏に生まれてよかった!
 教訓:孫の名前をつけるときは、白川静の本にあたるべし。


2015年5月22日

「やさとの椅子展」に行って

昨日から、やさとの「こんこんギャラリー」で第13回「やさとの椅子展」が始まった。雪入公園の下見が早く終わったのでさっそく行ってみた。椅子展は、多くの作家たちが、個性あふれるものや独創的なアイデアのものなど、思い思いの作品を展示していて実に楽しい。
 あちこちの椅子に座っては、自由で軽やかな気分になってみたり、ゆったりとした気分になったりと、いつまでも飽きることがない(こんな訪問者は迷惑だろうなァ)。
 アンケートを書いたら抽選が出来て、当たれば景品がもらえるという。抽選器は、手回しして色のついた玉が飛び出るクラシックなやつである。更に、ここのは特別なもので、回転する箱の上に「キツネ」の彫り物が鎮座している。さすが「こんこん」である。
 さて、おもむろに回したら、大当たりの「赤玉」が出た。景品として、Mさんが手作りしたコーヒー豆・スプーンを貰った。これは嬉しい! 抽選する前から、このスプーンにコーヒー豆を山盛りすれば、ちょうどドリップ一杯分だろうと考えていたからだ。
 実は、「おもむろに」と書いたが、大当たりするには、ちょっとした儀式が必要である。まず、回す前に、欲しい景品を心に描きながら、抽選器のおキツネ様の頭を優しく3回撫でること。これが秘訣である(笑)。

   展示期間: 5月21日(木)〜 31日(日) 期間中無休
   時間 :  11:00 〜 17:00

2015年5月13日

深海にて

 

 だいぶ陽も西に傾いたこの時間、部屋は暗くなってきた。周囲の窓は、まだ明るさの残っている庭の木々を四角に切り取って、まるで絵画か映画の一画面のようだ。ソロピアノの『Staircase』が流れている。僕は、長椅子に足をなげ出して座り、先ほどからトーべ・ヤンソンの『島暮らしの記録』をパラパラとめくっている。揃えた両膝の上ではピーが丸くなってぐっすりと眠っている。静かだ。まるで深海艇にでも乗り込んで海の底にピーと二人だけで沈んでいるよう。時折、海藻が波に揺れているかのように木々の梢が風に揺れる。小魚が泳ぎ去るかのように小鳥が横切る。
 現在のこの瞬間にも苦しんだり悩んだりしている人が沢山いるというのに、こんな平穏な時間を僕らだけが味わっていいものかと、ちょっと気になるが、まあ、いいか。


2015年5月11日

見上げればホオノキの葉


 つい先日、開葉したかと思ったホオノキが、いつの間にか一人前の大きさになっていた。これからしばらくの間、晩秋に落葉するまで、この大きな葉が小屋のデッキに緑の日陰をつくって、ピーと遊んだりお茶を飲む大切な空間を、強い日光から守ってくれる。朴の木は、僕らに静かな時間を与えてくれる頼もしい日傘なのだ。
 また、雨の日には雨粒が葉にあたって、「パラパラ」と大きな音がする。朴の木は、僕らの単調な小屋生活を慰めてくれる楽しい楽器でもある。


2015年5月8日

睡蓮鉢に空が映っていた

 
一昨年、小屋の軒下に設置した睡蓮鉢がいい感じだ。まだ姫睡蓮の葉も浮草も小さい水面に、影絵のように庭の木々が映っている。明るく抜けているところは、茂り始めた梢の間からのぞいている空。それに混じって、白く浮かんでいるのは散り始めたハクウンボクの花。五匹の緋メダカが、のんびりと泳いでいる。





2015年5月5日

ハクウンボクの鐘

 

 今年もまた、小屋の入り口近くにあるハクウンボクがたくさんの花を咲かせた。まだほの暗さの残る午前5時頃、野外に出たら、ブゥーンという無数のハチの羽音が聞こえた。音の発信源を辿ってみたら、多くのハチがこの花の間を飛び回って蜜を集めているのだった。ハクウンボクは、漢字で書くと「白雲木」である。良い名前をつけたものだ。五月晴れの青空と新緑の緑に、純白の花がよく映える。小さなベルを連ねて、春の喜びをおもいっきり伝えている。
 ハクウンボクは、この付近に分布する野生の樹木では美しい花を咲かす木の一つだろう。筑波山の北面にもたくさん自生しているが、残念なことに、樹冠近くの高い位置で咲いているので気がつく人は少ない。懸命にベルを振っているのに。





2015年5月4日

トマトを植える

前から頼んでいたトマトの苗を、長井農園から受け取り庭の南側に植えた。しっかりとした健康な苗である。それに、僕も今年は(今のところ)気合が入っている。すでに元肥は入れたし、こども農業雑誌『のらのら』で、育て方はバッチリ学んだ。毎年最大の敵であるクズも、ホルモン系農薬『クズコロリ』という新兵器で絶滅させた。おまけにコンパニオン・プランツのバジルも植えた。もう、豊作は間違いないだろう。朝露で濡れたトマトにかぶりつくのが待ち遠しい。

 ここで宣伝だけど、この「こども農業雑誌『のらのら』(農文協 4回/年)」は、実に楽しい。あの有名な『現代農業』の子供版みたいなものだけど、農作物や農的な生活について、やさしく丁寧に解説されている。内容も案外深くて高度である。何といっても、掲載されているイラストや写真が楽しい。(最近の僕には関係がないが、)気分が落ち込んでいるときや、イライラするときなど、眺めているだけでも元気が出てくることだろう。大人の気分転換用の読み物としても十分に役に立つ。そういえば、副題が「家族で楽しむ」となっていた。


ヤブデマリの花が咲いた


 この季節、湯袋峠などを車で走っていると、緑が濃さを増した山の斜面に白い花が点々と咲いているのを見つけるだろう。何の花だろうかと近づいてみると、すぐに、このヤブデマリの花だと判る。そう、花の形に特徴があるのだ。5枚の花弁のうち、中心側の1枚が著しく小さい。どことなく愛嬌のある面白い形をしている。白い蝶々のようだという人もいる。さらに、よく見ると、この白い花には、雄しべも雌しべもない。この白い花弁は、昆虫たちを誘うための目印、いわば看板みたいな役割をしている。この白い花に囲まれた中央の薄黄色のボチボチは子孫を残すための花で、花弁が無い代わりに雄しべも雌しべもある。夏には赤い実がつき、秋には黒く熟す。僕らは昆虫ではないが、白い花に誘われて、つい視線を向けてしまう。


2015年5月1日

カマツカ


今日も早起きした。気持ちがいい。日の出とともに起きて日の入りとともに眠るような生活をすれば、現代人の多くの精神的な病は発症しないのではないかと思う。人間は、何百万年も前から、つい最近までそうした生活を送ってきたのだから。

 例によって、今日も庭を巡回した。カマツカの花がひっそりと咲いていた。カマツカは、「鎌柄」の意味で、別名に「ウシコロシ」という恐ろしい名前もある。牧野日本植物図鑑(増補版)には、「材頗る粘靱にして堅く、鎌の柄に用いらるるに由り鎌柄の名を得、又牛の鼻に綱を通す時此の木を以て鼻障孔を穿つより牛殺しと称す。」とある。いろいろ調べてみると、牛の鼻輪を作ったり、先を尖らせて鼻輪を通す穴を開けるのに使ったり、また、この木の藪に牛が頭を突っ込むと角が引っかかって抜けなくなるからなど諸説ある。まあ、いずれにせよ、この木はいつでも農民の身近にあって生活と深く結びついていたのだろう。秋になると、小さな赤い果実がつく。子どもの頃、学校帰りによく友達と探して食べたものだ。リンゴの味がした。同じバラ科である。