2014年2月24日

異形人形を訪ねて


右が異形人形、左奥が古墳
先日のジオ・バスツアーで石岡市関川地区を通り掛かったとき、道路脇に異様な人形を見かけた。一緒に参加したIさんも気なったようで、その後、さっそく現地を訪れて、そのレポートがブログ『八郷の日々』に掲載されている。僕も、この異形人形の正体が知りたくて、今日、現地に向かった。厚かましくも、集落の住民を捕まえては、この人形の名前と役目を聞いて回った。多くの人は「オオニンギョウ」と呼んでいた。ダイダ?集落のおばあちゃんだけが、昔は「ダイダラボッチ」と呼んでいたと言っていた。どの集落も、毎年8月16日に、新たなものを作って交代するという。人形の役目は、村境に立っていて、村に入ってくる疫病や災いなどの悪霊を撃退するのだと。どおりで、太刀を腰に差し槍を持っている厳めしい武者の姿をしているはずだ。恐ろしければ恐ろしいほど効き目があるという。一時期、中止したら、村の若い人に不幸が多発したので、再び祀るようになったそうだ。
 小屋に戻ってから、藤田稔の『茨城の民俗文化』(茨城新聞社 2002)を見たら、この人形に似ているものとして「大助人形(おおすけにんぎょう)」というのがあった。北浦町南高岡では、二体のわら人形を村境に立て、疫病神が村に入るのを撃退してもらうと言い伝えられている。また、那珂郡大宮町では、毎年7月十日夕刻、麦わらで人形をつくり、厳めしい武者の顔を描いて、腰には茄子のつばをつけた竹刀を腰に差し、トウモロコシの葉でたすきをかける。懐に小麦まんじゅうを入れて、子供らが「おー鹿島のおーたすけ、鬼に勝ったみーさいなー」と叫びながらこの人形を村はずれに運ぶそうだ。これらは「鹿島信仰が農村の習俗と融合して、厄難除けや豊作、豊魚の神、安産の神として、庶民生活の中に浸透していった」ものだと説明されていた。おそらく、関川の異形人形も、この流れをくむものだろう。
 現在、関川地区では、隣接する四集落(長者峰、ダイダ、他2つ)だけが祀っている。この四体を見て回ったが、あるものは巨大な藁の金精様を持っていたり、真っ黒な顔に赤い隈取りなど、表情や造りが微妙に違う。集落で強さや恐ろしさを競っているかようだ。あるお宅では面白いものがあるからといって案内してくれたところには、前方後円墳の脇に立派な石の金精様が鎮座していた。古墳群、金精様、鹿島信仰、長者峰・ダイダという地名、オオ氏一族、そして異形人形・・・この地域には、現在でも日本のプリミティブなものが健在しているようで嬉しかった。


2014年2月23日

盆地の中の隠れ里


 山根盆地(八郷盆地)自体が隠れ里である。その中でも、最も「隠れ里」らしい集落が、Mである。足尾山麓の東斜面に張り付くようにしてひっそりと佇んでいる。集落の中を流れる沢が、前面に広がる谷津の田んぼを潤す。この隔絶したような土地が故に、子どもたちは学校でバカにされたと聞く。
 前々から関心があったので少し調べてみた。やはり、ここはタダモノでは無い。地名Mの初出は、戦国期の文禄五年(1596)の『御蔵江納帳』で、『八郷町誌(1970)』によれば「宇治会館の領主であった路川氏が、佐竹に追われて足尾山麓に隠退した」ところとある。なぜ追われたかというと、路川氏が、敵対する小田氏と同族である宍戸氏の一族だからだ。この地も八郷に多い室町時代の合戦の記憶をかすかに留める場所の一つである。こうした歴史を証明するかのように、わずか十数戸の小集落の中に、地方にしては珍しく本格的な建築である長樂寺がある。この寺は、寺伝や寛永十年(1711)の鐘銘によれば、なんと創立は天長元年(824)であるというから、もしかすると、この集落は、はるか戦国時代を越えて、さらに古い歴史を持っているのかもしれない。

石垣に寄りかかって休んでいた地元のおばあちゃんに、お寺の場所を聞いたら丁寧に教えてくれた。その通りに杉木立の間を進むと、突然、華麗ともいえる本堂が現れた。まだ、先日降った雪が残っていて、反射した光が庇の見事な彫刻を明るく照らしている。辺りの凛とした空気が寺をすっぽりと包んでいた。

2014年2月21日

「八郷湖」の砂浜


 昨日の石岡市ジオツアーはとても面白かった。いまだに、池田宏先生による名解説の余韻が残っている。また一つ、山根盆地(八郷盆地)を見る目に新たな視点が加わった。
 今日、水戸の歴史館に行った帰り、南山崎の交差点に差し掛かった時、ふと昨日の先生の話を思い出したので、車を路肩に止め降りて周囲を眺め回した。傾きかけた陽の光が、小麦畑を照らしている。畝のカーブが、台地の緩やかな起伏を際立たせている。八郷は、山麓の風景もいいが、このようなたわやかな丘の風景も美しい。
 先生によると、この標高30〜40mの台地は、「世界の海面が高まった12万年前の温暖期(最終間氷期の下末吉海進期の古東京湾時代)には、竜ノ口から南山崎の1kmが八郷の入り江「八郷湖」の湾口で、当時の八郷盆地は今の浜名湖のようだった」という。そう聞いて、改めて眼前に広がる丘をじっと眺めていると、麦畑が広い砂浜のように思えて、遠くの方から打ち寄せる波の音が聞こえてくる・・・。えっ!何も聞こえない? それは、あなたが、昨日のジオツアーに参加しなかったからです(笑)。


2014年2月15日

石岡市小幡窯跡(仮称)

昨夜からの変な天候のせいで、今日行われる予定だったイベントが延期になった。ポッカリ空いた一日。何をしようかと考えたとき、思い立ったのが、現在、ひたちなか埋蔵文化センターで開催されている「須恵器展」である。この展示には、一昨年の夏、僕と友人のY氏が、小幡地区で偶然に見つけた窯跡が紹介されているはずだ。
 会場では、ガラスの向こうに、綺麗に洗われた須恵器片と解説パネルが展示されていた。解説を読むと、これは8世紀末から9世紀初めのもので、研究者が「新治窯胎土B類」と呼んで、長い間、生産地を探していたものかもしれないとある。もし、そうなら当時の八郷には、古代道や恋瀬川の水運を利用した高度な技術文化が存在した事になる。早く研究結果が知りたい。まだまだ、八郷には多くの謎が眠っている。実に不思議なところだ!
 それにしても、何故だか、僕は第一発見者になることが多い。植物もそうだし、この遺跡もそうだ。しかし、警察管轄の「あれ」だけは、もう御免蒙りたい。


2014年2月10日

まだ、閉じ込められている → 脱出成功!


午前11時50分。まだ、出口の坂が半分ほど凍っている。車で突破する勇気がないから、いまだに小屋に閉じ込められたままだ。ピーは、溜め息をつきながら(?)窓枠の上から外ばかり眺めている。僕は、もう、朝からコーヒー2杯目。

午後2時25分。無事、脱出成功! 嬉しくなって、そのまま走ってガソリンを満タンにして来た。明日の朝は、また道がガラスと化するので、用心して車は坂の下に止めておいた。お祝いに、これから3杯目のコーヒーを飲むことにする。


2014年2月8日

雪、こんな日は読書に限る

  夕べからの雪で、小屋に閉じ込められている。こんな日は、読書に限る。それも『辻まこと』がぴったりだ。彼は、「世に広く知られた人物ではなかったが、知る人ぞ知る。只者ではなかった。両親は辻潤と伊藤野枝、幼くしてフランスに渡るも、帰国してはこれといった定職に就かず、自由に絵を描き、エッセイも書き。風刺的画文をものにし、スキーと岩魚釣りの名人にしてギターをよく弾いたがいずれも余技の趣き、一個の専門家ではなかった」が、いずれも達人のレベルだ。誰かが言っていた。彼のエッセイを読んだら、他の人のエッセイは「銀行の帳簿」みたいだと。彼の話に、誰もが聞き入った。彼の人柄に、誰もが魅せられた。僕と彼との出会い(書物の上で)は、もう、40年以上も前のことだが、やっとこの歳になって、彼の魅力溢れる自然人・自由人の世界が、少しづつ見えるようになってきた。薪ストーブの側で、膝にピーを乗せてコーヒーを飲みながら「辻まこと」の世界を彷徨うのがこれからの人生の楽しみである。

 今日のような天気の日に相応しい1ページを紹介する。写真をクリックして大きくして読んで欲しい。「雨」を雪に変えて。





2014年2月6日

真壁の雛人形もいいが、

 


女将の祖母が着た打掛
湯袋峠の雪が心配だったが、小屋に閉じこもっているのにも飽き飽きしたので、真壁まで食事に行くことにした。行き先は橋本旅館&珈琲である。一昨日から、雛祭りが始まっているので、いつものメニューとは違っている。「上巳御膳」とかいって豪華である。梅酒の食前酒や蛤のすまし汁まで付いている。隠しながら若い女性のようにスマホで写真まで撮ってしまった(アァ、ハズカシカッタナー)
 食後、二階に上げてもらった。ここの二階は、大正・昭和初期の雰囲気がそのまま残っていてどこか懐かしさを感じさせる。さすがは有形文化財の老舗旅館だ。
 祭が始まって日が浅いせいか、僕の他に誰もいない。これ幸いに、享保年間(1716-1735)に作られた真壁で最も古い雛人形とじっくりと対面させてもらった。人形の上品で優美な表情に見とれて、当初、ここで「ぜんざい」を食べるつもりだったのをすっかり忘れて小屋に戻ってしまったのが唯一の心残りである。(写真はクリックしたら大きくなるよ)

2014年2月5日

雪の朝



今朝は澄み切った青空の気持ちの良い天気。このごろ急に力を増した陽の光が、昨日の雪に容赦なく照りつける。この分なら、昼までにはだいぶ溶けるだろう。恐る恐る凍った坂を降りて集落の様子を見に行った。走る車が少ないせいか、静かだ。遠くから子どもの雪遊びの甲高い声だけが聞こえる。モノクロームの世界に、筑波山の空と畑のビニールシートの青色だけが目立つ。戻って、庭から山小屋を眺めた。いつも朝食をとっているデッキが雪で覆われている。今朝は室内で飯だ。小屋の中では、まだピーが寝ている。どうせ外では遊べないからと、今朝は寝坊することにしたらしい。

2014年2月4日

本格的な雪が降っている

食事に結城まで行ったが、雲行きが怪しくなったので急いで戻って来た。僕の車はノーマルタイヤだ。筑波山に近づくにつれ、雨はみぞれに、そして雪に変わった。八郷の盆地に入ったら、本格的な大粒の雪である。みるみる間に辺りは雪景色。小屋までたどり着いたら、庭の木々に雪が積もって、いつもの見慣れた光景を一変させていた。どこか、知らない土地に来たようだ。「雪は非日常の世界を演出する」なんて「」つけて言いながら、ピーと一緒にハシャイいでいるが、それも今のうちだけ。明日の朝、何処にも出かけられずに困り果てるのは確かなのに。

2014年2月1日

センダンの実

今頃の八郷を歩いていて、屋敷や畑の片隅にたくさんの実を下げた木があったら、センダン(古名はアフチ、楝)かもしれない。今日も、散歩していて、Kさんの屋敷でこの木を見つけた。冬の空を背景にして、裸木にたくさんの黄褐色の実をぶら下げているから、とてもよく目立つ。初夏には上品な淡紫色の花を房状につけて美しい。夏の葉叢も涼しげである。
しかし、実態はなかなか「ブッソウな」樹木である。なにしろ、この実や樹皮は、極めて有毒で、犬ならこの実を5、6粒、子どもなら8、9粒食べれば、48時間以内に死に至る。昔、打ち首を曝した獄門台はこの木で作ったと言う。そのため地方によっては忌み嫌って屋敷には植えない。では、何故、八郷に沢山あるかというと、昔は、その毒性を駆虫剤や薬として利用していたからだろうと思う。花や葉は、ウジ虫駆除などの殺虫剤として、また生の果肉は、ヒビやシモヤケによく効くといわれる。いつか、Kおばあちゃんに聞いて確かめてみよう。

 面白い実なので一枝貰ってきたが、ピーが食べるといけないので、あいつの届かない壁の上の方にかけておいた。なお、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は、これとは別のビャクダン科のビャクダンのこと。