2016年11月28日

講演「舟田靖章の世界」が待ち遠しい


 
 少し前に、ロングトレイルを歩いている知人から、八郷のどこかに「日本人で初めてトリプルクラウンを踏破した伝説的な男がいる」という話を聞いた。さて、誰だろうかと思っていたところ、昨年、Hさんの引越し準備の日に、「暮らしの実験室」の舟田君と会って、知らないかと聞いたところ、「ああ、それは僕ですよ」とあっけなく言われて、ものすごく驚いた。だって、てっきりマッチョな男を想像していたが、目の前に立っている彼は痩せぽっちの、まだ少年のような雰囲気を残している、ごく普通の青年だったからだ。
 トリプルクラウン・ハイカーといえば、アメリカの三本の超長距離自然歩道(メキシコ国境からカナダ国境まで縦断するパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)、東部のアパラチアン・トレイル(AT)の約14,000Kmの全てを踏破したハイカーに贈られる名誉ある称号である。まだ、日本人では2、3人しかいないと思う。

 その、舟田氏が、来年の1月15日(日)に、八郷の朝日里山学校で講演をするという。もしかしたら、彼の初めての講演かもしれない。僕が聞きたいのは、一つでも数ヶ月かかるルートに、どんな姿勢(気持ち)で臨んだのか? 歩きながら何を考えていたのか? そこで何を得たのか? そして今は? ということである。もっとも、彼のことだから、淡々とさりげなく国内のちょっとしたハイキングみたいなことをことを言うかもしれないが・・・。
 さらに、今回の講演では、実際に使ったバックパック、テント、コンロなどの、手作り(!)の道具類や写真なども展示するそうだ。これは聞き逃す・見過ごすわけにはいかない。


2016年11月26日

集落のおばあちゃんたち



 久しぶりに澄んだ空の今日、Kさんのおばあちゃんが門前で銀杏を乾していた。銀杏は、その名前の通り秋の陽を浴びて美しく銀白色に輝いていた。僕が、呑気に「きれいですね!」と声をかけたら、おばあちゃんから「粒の悪いのを除くのが大変で・・・」と返って来た。イチョウを育て、ここまで見事な銀杏を収穫するまでには大変な手間と苦労があったのだろう。

 
 Kさんの家の100mほど南に、同じ苗字のおばあちゃんの家があって、大きな茅葺民家に一人で住んでいる。いつ行っても、物置の軒下で、「しめ縄」を編んでいる。よく初詣などで神社に行くと、ぐるっと境内を囲んでいるあのしめ縄である。専用の稲藁を使って、七目ごとに四手を下げる特殊な編み方をしている。清々しい稲藁の香りがあたりに漂っている。秋の日差しが物置の奥まで届いて、黙々と一人で編んでいるおばあちゃんを優しく照らしていた。

 僕が、この地に小屋を建てたのも、これらのおばあちゃんから、ここに住むことを勧められたのからである。お茶をご馳走になりながら、「ここは特別なところで、あの家もこの家も夫婦揃って90歳になっても元気だ」「ぜひ、夫婦で越して来て住んだらいい」と言われた。確かに、この集落のお年寄りは、元気な人が多い。
 最近になって、この「特別なところ」の秘密が少し解ってきた。それは、水でも空気でも桃源郷のような風景のせいでもなく、単にお年寄りの皆さんがよく働き、よく動いていることにつきる。写真の銀杏を乾しているおばあちゃんなど、90歳をとっくに超えている。おじいちゃんも元気だ。

 僕みたいに、ただこの土地に住んでいるだけで、村のお年寄りのようになれるというのは甘い。



2016年11月15日

落ち葉に埋もれて

 
 昨夜からの雨が上がった。朝起きて、小屋の窓を開けると、黄色く色づいた木々の光が飛び込んでくる。あちこちで、カサ、ボソと木の葉の落ちる音が聞こえる。小さな音は、コナラやクヌギ。時々、ビックリするくらい大きな音を立てるのはホオノキ。カツラやケヤキは音がしない。でも、風が吹くとシャラシャラと一斉に散る。



 庭に出て振り返ると、小屋の屋根は落ち葉でいっぱい。これから、もっとたくさん積もるだろう。掃除するつもりは無い。落ち葉に埋もれて、暖かく冬を越すのだ(笑)。






2016年11月7日

謎とロマンのフクレミカン



 このところ秋晴れの日が続く。笠間に向かう途中、八郷の真家にある浄土真宗の古刹「明圓寺」に寄りたくなった。お目当は、フクレミカンである。以前から、この寺の南面にフクレミカンの古木が数本あるのを知っていた。それらが実をつけるのを見たかったのだ。現地に行ってみると、ミカンは、見事!たわわに実って、周囲の柿の実と秋色を競っていた。
 このフクレミカンは、ふるくから筑波山麓や鹿島郡、行方郡などの茨城県でも比較的暖かな地方で栽培されていたようである。今でも八郷の小幡地区には200年を超えるような古木がある。写真の明圓寺(真家)のフクレミカンも、幹周りが1mもあると思われるものや、地面をのたうち回っている木など、数本が元気に育っており、たくさんの果実をつけていた。味は、酸味がやや強いが、他の柑橘類には無い独特の爽やかな香味があって、皮を陰干して細かく砕いたものを陳皮と言って七味唐辛子に入れる。名前の由来となったブヨブヨの皮に包まれた小さくて可愛いミカンである。昔は、秋の運動会などには無くてはならないものだったようだ。

 ところで、疑問なのは、万葉集巻二十にある占部広方の望郷の歌である。
「橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも」 また、「常陸風土記」には、行方郡と香島郡には、橘(タチバナ)の木が生い茂っていたので、古くは「橘の郷」と呼ばれていたとある。しかし、現在の植物図鑑に記されている「タチバナCitrus tachibanaは、暖かな地方の植物で、北限は静岡県焼津である。茨城県には生育していない。
 もしかすると、万葉集や常陸風土記に書かれている橘は、フクレミカンのことなのだろうか?それとも、茨城県には他の柑橘類があったのだろうか?そして、日本武尊の妾である弟橘姫や京都御所紫宸殿の右近の「橘」は、どちらなのだろうか?
 謎とロマンに満ちた柑橘類、フクレミカン。そう思いながら、ぜひご賞味あれ!



2016年10月17日

内山節の講演を聞いて



 昨日、八郷の朝日里山学校で第5回目の『八豊祭』があり、内山節氏の講演があった。彼を知ったのは、確か『森へかよう道』(1994新潮選書)や『里の在処』(2001新潮社)を読んだころだから20年も前の話である。その時「この人とはフィーリングが合うな」と思って以来、時々著書を見つけては読んでいる。その本人と、まさか八郷の山小屋の近くで会えるとは、まったく驚きである。しばらく聞いていて、「アア!やはり内山さんだ。変わっていない!」と何かホッとした。呼んでくれた人々に感謝する。

 講演の内容は、人によって受け取り方は様々なようだが、話のポイントは、決して今流行りの「里山地域活性論」では無い。それは、20年も前から住み続けている上野村での生活を原点として思索してきた「関係性」の構築ついてである。この場合の関係性は、自然との関係性、人々との関係性、歴史・文化・土着信仰などとの関係性であり、さらに生者と死者との関係性まで含んでいる。昔の日本の社会は、これらの関係性で結ばれた小さな共同体が多数集まって、全体(多層的共同体)を構成しており、経済活動は、この共同体が営む行為でしかなかった。しかし、これら関係性の諸要素が分解分離して、経済だけが暴走しているのが現在の危機である。これからの社会を展望するにのにあたっては、小さな山里(上野村やフランスの田舎など)に見られるような全体的に調和のとれた「関係性」を再構築することから始めなければならないというものである。

 ざっと、僕はこのように理解したが、注目すべきは、彼の視野が目に見える人間や自然だけに止まらず、目に見えない信仰や精霊、死者などまでに届いていることである。僕が最も共感するのはこの部分であり、彼の思索の深さである。

 現代にふさわしい調和した「関係性」の構築となると、まったく難しくてわからないが、昔の社会あるいは部分的にそれが実現されている社会から学ぶことは多くあるように思う。



 
 

2016年9月27日

宣伝:ちょっとディープな八郷案内



 僕と矢野氏の二人で、八郷を案内することになった。どうせやるなら、我々らしいちょっとディープなガイドをしようと思っている。コースは、辻を出発してを菖蒲沢の薬師堂を経て、龍神峠から上青柳へ下り、古民家を見学してから中世の古戦場を通って小幡の「ゆりの郷温泉」まで歩く。このコースは、八郷の中でも、最も「やさと」らしいところで、美しい風景と変化に富んだ地形、豊かな歴史や文化の地域である。少々、大げさに言ったら「隠れ里訪問」である。(僕の『木守小屋』もここを舞台にしている)。
 何でも、まだ、空席があるらしいので、興味がある方は、急いで石岡市政策企画課まで申し込んで欲しい。日時や要領は下記の通り。
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日時: 10月2日(日) 午前8時15分〜午後1時
集合: 朝日里山学校
参加費: 無料
申し込み受付: 石岡市役所 政策企画課 0299-23-1111
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追記:つくば方面の方は、つくば駅午前8時発の『やさとフルーツ号』に乗車して、「辻バス停」で下車すれば、良いかも。そうすれば、終わった後、「ゆりの郷」で温泉に入って、お酒が飲める(笑)。


2016年9月15日

梢の間に月が見えた


生飯(サバ)の作法




 曹洞宗などの坐禅道場で行われる「生飯(サバ)の作法」を真似て、庭の石の上に、食べ物を供えることがある。僕は、この作法の精神に深く共感して、格好良いと思うからだ。
 禅僧は、食事の際に、「汝等鬼神衆 我今施汝供 此食遍十方 一切鬼神共」と偈(短い詩)を唱えながら自分の椀からご飯つぶを取り分け、それを配膳係が集めて、境内の片隅にある「生飯台(サバダイ)」の上に供える。偈の意味は、おおよそ「鬼神たちよ、私は今あなた方に食事を供養する。この食事が、あまねくすべての尊きいのちたちに届かんことを!」というものである。この際の「鬼神」とは、目に見えぬ鬼神衆、有縁無縁の諸霊、そしてこの世の動物や小鳥、昆虫や蟻などの目に見える生きものたちのことだ。まあ、簡単言えば、「この世で共に生活している(=繋がっている=縁起)目に見えない存在から目に見える命(いのち)のすべての者よ! これも縁だから一緒に飯を食おうじゃないか!」ということだ。

 夜中に目が覚めて、今頃、僕が供えた生飯台には、一体何が来ているかを想像するのは楽しい。コオロギかキリギリスか、それとも恐ろしい姿をした鬼神たちか、亡霊か(笑)?
朝起きて、食べた跡を見つけるとなおさらである。




2016年9月9日

流山を散歩して



 いつもは、流山の自宅に帰ると家内から言いつけられた仕事を大急ぎで片付けて、逃げ帰るようにして八郷の山小屋に戻るのだが、昨日は、多少時間ができたので、近くの『TX おおたかの森駅』周辺まで散歩した。しかし、その周辺の変貌ぶりには、まったく驚かせられた。昔といっても十数年前ことだが、当時の面影はまったく無い。以前、不気味なほど暗い林だったところが、今は、どの辺だかわからない。裏に大きな樫の木の屋敷林を背負った農家はどこかに消えて、広大なぶどう畑だったと思われるところには、街路樹が茂る太い道路が横切り、その両側には高層のマンション群やショッピングセンター、クリニックなどのビルが林立している。その「オシャレな」石畳の上を、綺麗な若い女性たちが着飾って歩いている。可愛い子供達が、追いかけっこしながら通りすぎる。ショッピングセンターに入ると、色鮮やかな商品の山や美味しそうな食べ物のショウウインドウが眩しい。・・・唖然とした。いつの間にか、僕は「浦島太郎」になってしまったらしい。異邦人の気分である。

 そこで、この光景を眺めながら、ふと、中国の弾圧からフランスに逃げたあるチベット仏教の高僧の話を思い出した。高僧は、通り過ぎるパリの街をタクシーの窓から眺めながら思った。「もしかすると、これが仏教でいう『天上界』なのではないか。人々はみな美しく、清らかに見える。まるで『天人』のようだ。しかし、よく見ると、どこか寂しげで不安を抱えているようだ。どうやら、いつ、突然に、この幸福な状態が壊れて、餓鬼や阿修羅、人間、畜生に生まれ変わるかもしれないという心配で心がいっぱいなのかもしれない。やはり、自分は人間でよかった。」と。

 僕も、やはり田舎人で、良かったと思った。





2016年9月4日

タマゴタケを見つけた

 いつもの定例観察会で筑波山の山麓をめぐってきた。秋の花はこれからだったが、森のいたるところにキノコが出ていた。濡れた落ち葉を押し分けるようにして、黄色いのや白いの、灰色なのが姿を現している。きっと、今年の夏は雨が少なかったので、じっと我慢していたところに、先週の大雨で一斉に発生したようだ。
 落葉樹の森に少しばかり足を踏み入れたら、ミズナラの根元に真っ赤なキノコが群れをなして生えているのを見つけた。もしやと思って近づくと、大当たりだった。そう!タマゴタケである。そばに、白い球形の幼菌もある。摘んでみると弾力があり、とてもキノコとは思えない。まるで、爬虫類の卵である。やがて、その「殻」を突き破って、真っ赤な「傘」が現れる。成長すると直径10cmにもなるが、顔をのぞかせたばかりのキノコは、たまらなく可愛い。
 色は黄色味を帯びた赤で実に美しい。が、きっと初めて見る人は、猛毒のキノコだと思うだろう。しかし、食用になって、しかも極めて美味である。ヨーロッパでは、「カエサル(シーザー)のキノコ」といって、とても珍重される。今夜は、このタマゴタケが僕の夕食のおかずである。ホイル焼きにしようか? スープにしようか? カルボナーラもうまそうだ・・・バターと相そうだ。

 注)もし、今後、このブログの更新が無かったら、「猛毒」のベニテングダケと間違えたと思ってほしい(笑)。


2016年8月28日

『山の園舎の中庭マーケット』



 八郷は、奈良時代には常陸国国府で使う屋根瓦などの建築資材や碗、祭器、織物などの生活用品を生産していた。現在でも、陶芸、木工、編み籠、織物、ガラスなどの工芸家やアーティストが多く住んでいる。人口比だったら、日本一の地域かもしれない。

 すでに、10年以上も前から、『こんこんギャラリー』が、この地域の拠点になっていることを紹介したが、さらに新たな動きが加わった。本日、旧ほしのみや幼稚園で開催されている『山の園舎の中庭マーケット』である。
 若い作家たちが、様々なワークショップを行っていた。フランスパンやお茶の店も出ている。加波山麓の緑豊かな場所で、元幼稚園の広いスペースを使って、いかにも八郷らしい「のんびり、ゆったり」した空間が生まれている。耳をすますと、近くに流れる谷川の水音が聞こえてくる。

 今回は、初めての試みだそうで、こぢんまりとしたものであったが、モノ作りの面白さや表現することの楽しさを、誰もが、特に子供たちが体験出来る機会として、これからもずっと続けて欲しい。



2016年8月15日

真家の「御霊おどり」から帰って







 先ほど、ずうっと前から、ぜひとも見たいと思っていた真家(やさと)の「御霊おどり」の見学から帰ってきた。これは平安時代の末期から、この地区に伝わっている念仏踊りで、古い盆踊りの形を残しているとも言われている。
 毎年、旧盆の十五日に、あの世に旅立った御霊と現世の人の心が踊りを通じて通い合うというものである。写真の編笠から垂れたヒラヒラは「オゴマ」と言って、仏(死者)をあらわす。それに混じって、現世の老若男女が踊るのである。昔は、夜を徹して踊ったというから、夜が更けるとともに、あの世ともこの世ともつかない幽幻な世界が現出したことだろう。もちろん、無形民俗文化財(県)に指定されている。

 今年の踊り手は、4、5十名はいただろうか。大人に混じって小さな子供達が一生懸命に踊っている。その姿が実に可愛い。このあと、新盆の家三件と地区にある寺三箇所を巡るそうだ。暑くならなければいいが・・・。

 山麓にある明圜寺の深い緑の木々や、苔むした石畳を背景に、色鮮やかな衣装がよく映えていた。このような美しい民俗が800年以上も連綿と続いてきた八郷は、本当に素晴らしい。そして、子供達がしっかりと引き継いでいることも。



2016年8月7日

サルスベリの咲く風景


 
 花の少ないこの季節、田舎道を走っているといたるところでサルスベリの花を目にする。カッと照りつける真夏の太陽のもと、濃い緑の生垣の間から、赤、ピンク、白色の花がのぞいている。僕はこの花が好きだ。小屋の庭にも、真っ赤なのと白に赤い縁取りのある可愛い花を咲かせる二種類を植えた。夏目漱石もこの花が好きだったとみえて、いくつも俳句に残している。

「百日紅浮世は熱きものと知りぬ 」
「杉垣に昼をこぼれて百日紅 」
「先づ黄なる百日紅に小雨かな 」

 以前から、この花をじっと眺めていて、真夏に咲く花としては、どことなく寂しげであると思っていた。最近知ったことだが、やはりこの花には悲恋物語があったのだ。なんでも昔々のこと、朝鮮半島の寒村で人身御供にされそうになった娘を若い修行僧が助けた。二人は恋仲になり、修行が開ける百日後に迎えに来ると約束して別れた。しかし、娘はそれを待たずして病で死んでしまった。すると、その娘の墓から一本の木が生えてきて、百日の間、可憐な花を咲かせたそうである。サルスベリは、「百日紅(ひゃくにちこう)」とも書く。

 写真は、旧出島村のどこかだったと思う。僕はこのような「何でもない、ごく普通の」風景が好きである。でも、なかなか撮影は難しい。

2016年7月28日

今朝の庭







 僕の山小屋へ来たことのある方は、今頃、雑草に埋もれているのではないかと心配(?)しているのかもしれないので、今朝の庭の様子をアップします。



 確かに、日当たりの良い明るいところは、これまでに1、2回草刈りしたが、木々の日陰になっているところは、案外、草が生えない。12年前、草地だった土地に、カツラ、コナラ、クヌギ、ヤマザクラ、ミズキなどの木々を一本一本手植えしたのが、今ではすっかり大きく成長して、だんだん当初イメージした「雑木林の中の小屋」に近づいてきた。小鳥やモグラ、セミやトンボ、蜘蛛、カエルやヘビなどの小動物や昆虫も棲みついた。
 毎朝、ピーと二人で、新たに棲みついた生きものを探したり、これからの庭の構想を練ながら巡回するのが日課となっている。ピーは飽きてくると、置いてある椅子の上で一寝入りするのが彼のお決まりのコースである。林を抜けた気持ちのよい風が吹いている。
 
 ピーに「お前ほど幸せなネコはそういないよ!」と言ってやるのだが、どこまで解っているのか疑問だ(笑)。




2016年7月13日

ピーとの会話


 長椅子に座り足を投げ出して読書していると、必ずピーがやってきて膝に飛び乗る。
「何の本を読んでいるの?」
「昔の禅の本。お前にはわからないよ。」
「へェ〜、人間って馬鹿だな〜。そんなことしてないで遊ぼうよ!」
「・・・ そうするか!」

毎晩、こんな会話が繰り返されている。








2016年6月3日

僕の「原風景」



 今から20年も昔の話。土浦からバスに乗って雪入で下車し、八郷と千代田町の境界になっている青木葉峠に向かった。峠に立つなり、思わず息を飲んだ。目の前に幾つも青い山が重なり、その奥にはこれまで見たこともない秀麗な山が屹立していた。その光景は、これまでイメージしていた茨城とはまったく異なったもので、まるで長野県の田舎のようでもあり、あるいは、どこか知らない世界に迷い込んだようでもあった。

 まさかその山々の下に住むことになるとは想像もできなかった。
ずっと昔、青木葉峠に独り立ってこの光景と出会った瞬間に、僕と八郷の結びつきが生まれて、いつの日か、この地に戻ってくることが決められたのかもしれない。

 昨日、久しぶりに、僕の「原風景」と再会した。


(※ ぜひ、写真をクリックして大きな画面でご覧ください。 )





2016年5月15日

やさとの「こんこんギャラリー」にて



 賑わう企画展の「こんこんギャラリー」も楽しいが、今日のように落ち着いた雰囲気のメンバー展も気持ちがいい。デッキにいると若葉を揺らした風が通り過ぎてゆく。新鮮な空気を肺の奥の奥まで届けようと、思い切り深く呼吸した。

 この「こんこんギャラリー」は、約15年前に、八郷の「ものつくり」のメンバーが、作品を展示する場所として、またコミュニティーの拠点として、地域の協力を得ながら力を合わせて手作りしたものである。今では、当初の目的を立派に果たしているばかりではなく、やさとを象徴する建物となっている。ここに来れば、工芸品や芸術品から有機農業の野菜まで、生活を豊かにする衣・食・住のすべてに出会える。出会えるのは「もの」ばかりではない。直接、作品の作家と会って、その感性や思想にも触れることができるのである。やさとの「精神」にも出会えるのである。僕は、このような場所を他に知らない。
15年を経た建物の木材は適度に色褪せて、柱には蔦が絡まり、周りの木々も大きく育って、すっかり周囲の里山の風景に美しく溶け込んでいる。

 しばらくして、注文したコーヒーが運ばれてきた。今日は、特別にTさんの手作りのケーキと「いちごジャム」が付いている。種子島洗糖を使ったジャムだ。コーヒーの苦味に、いちごの甘い香りが引き立つ。

 今日も、素晴らしい一日になる予感がする。





2016年5月4日

羊歯愛

 性格によるものとは思えないが(笑)、わりとシダ(羊歯)が好きである。深い緑色の小葉が、数学的な几帳面さで並んでいる形や、春先に地面からムクムクと毛むくじゃらの首を盛り上げてくる姿などがたまらない。原始的な生命力を感ずる。それに、日陰が多い僕の山小屋でもよく育ってくれる。すでに、アジアンタム、アビス、シノブやその他2、3種類の鉢があって、いつでも何かがテーブルの上を飾っている。夢は、ヘゴのような超大型の木生シダの下で暮らすことである。そう!恐竜のように。



 昨日、山歩きイベントの下見に、Y氏と柴内集落の上の森の中を歩いた。途中、林道の脇で何箇所も見事に茂っているウラジロの群落を見つけた。ウラジロは、ちょうど新しい芽が伸びたばかりで、翼のように広げる一対の(葉)の付け根のところから、初々しい色の(茎)が伸びて、頂上でさらに二つに枝分かれしている。先端がくるくると丸まっているのも可愛い。名前の通り裏側が白い。
 ウラジロは、暖地性の大型のシダで、お正月の鏡もちの上にミカンを乗せて飾られているシダといえば知っている人も多いだろう。これは、冬でも緑色を保っていて、葉裏が白いことから「共に白髪になるまで」と長寿を祝い、形が何世代も重なった子孫繁栄を象徴しているからだ、と言われている。実におめでたいシダなのである。
 来年のお正月に飾りたい人は、近くの山を探せばきっと見つかると思うよ。




 

2016年4月27日

巨大パラボラアンテナを操作してきた

 
 来月から本格運用が開始されるパラボラアンテナ(VLBI)の一般公開に行ってきた。これは、現在、つくば市の国土地理院にあるパラボラアンテナの後継である。やさとの小山の上に新設されたこの装置は、世界最高水準の性能を誇っているそうで、アメリカ、ドイツ、スペインに続いて4番目に設置されたそうだ。よくわからないが、原理は、数十億光年かなたのクエーサーから届く宇宙電波を、地球の複数のアンテナで受信して、それらに届くごくわずかな時間差を計算・解析して、数千Km離れた大陸間の距離を1ミリメートルの精度で測るのだそうだ。その観測結果は、地球の緯度・経度の基準設定、地震と関係深いプレート移動の監視、地球自転の精密測定、世界時、電子基準点の位置確定などに使われて、意外と我々の生活と関わりが深い。その他、高さの基準を作る絶対重力計FG5なども設置されていて、世界最高の最先端技術がここに集まっている。八郷には柿岡の地磁気観測所と並んで、世界に誇る施設が二つもあるのだ。いずれも、日本と世界の極めて重要な基準点となっている。


こんな機会はまず無いので、コントロールルームから、アンテナを動かしてきた。パソコン画面から、方向や角度などの数値を入れて実行ボタンをクリックすると、目の前の巨大なパラボラアンテナがぐるぐる回る。快感である。僕の前に並んでいた小さな男の子は、釘付けになって真剣な表情で操作していた。
 やっぱり、やさとは奥が深い。時間が止まっているような場所があるかと思うと、地球規模、宇宙規模の最先端の観測拠点もある。






2016年4月25日

山麓の春とギャラリーカフェ

 





 今、やさとは美しい季節。特に、青柳の集落は、山の若葉に包まれたかのよう。田んぼの畦では、カキドオシやジシバリ、タンポポ、ナガミノヒナゲシなどの花が咲いて賑やかだ。すでに、あちこちの田んぼに水が入って、田植えの準備が始まった。トラクターの音も聞こえる。昨夜は、カエルの合唱が、一段と声高に聞こえた。いよいよ、本格的な春の到来だ!

 




 この集落の中で、4月30日から5月3日までの間、LaLa mosura(ララ モスラ) のイラスト展が開かれる。ララ モスラは、13歳の女の子。会場は、上の写真の右側に写っている古民家。合わせて、「きまぐれカフェ」もOPENする。
 場所 :〒315-0153 石岡市上青柳78
     古民家ギャラリー えんじゅ
詳しくは、右のチラシ写真をクリックして見てください)


 新緑の山裾をのんびりと散歩して、途中の古民家ギャラリーに立ち寄り、お茶を飲みながら絵を見て過ごすなんて、すごく贅沢な休日の過ごし方だと思うよ。









2016年4月11日

「やさと」の自由な空気

 
 ふと、車で八郷を走っていて、先月、越してきたばかりの若い夫妻が、「八郷はプロバンス地方によく似ている。これで斜面に葡萄畑があればそっくりだ。」と言ったのを思い出した。そういえば、南欧に長く暮らしていた友人も同じようなことを言っていた。



 確かに、「やさと」は、プロバンスのイメージに近いかもしれない。もっとも、僕は、南仏のプロバンスは訪れたことがない。ピーター・メイルのエッセイを読んだり、絵画や写真を見ただけだが、何となく彼らの言うことがわかる。・・・盆地を囲む優しい山々、なだらかな丘陵と遠くまで続く麦畑の畝、その向こうの木立、菜の花が広がる畑(ヒマワリの代わりか)、屋敷林に隠れるように点在する農家・・・。
 似ているのは風景だけではない。昔からずっと農業や果樹作りを営んでいる農家の人々、有機栽培や自給自足の生活を目指す若者、芸術や工芸などの作家、「やさと」の自由な雰囲気にあこがれて集まってきた人も多い。

 誰か、難台山か吾国山の南斜面で葡萄を栽培して、ワイナリーでも作ってくれないかな〜。気候や土質は適しているらしいよ。そうすれば、ますます似てくる。

 そういえば、瓦谷に『八郷プロバンス』という老人ホームがあったのを思い出した。なかなかのネーミングだ(笑)。






2016年4月8日

雨上がりの山里




 昨日、流山の自宅から小屋に戻った。朝からの雨も上がって、あぜ道の草がしっとりを濡れている。山肌のあちこちに山桜が咲き出した。ところどころに、芽吹いたばかりの柔らかな緑。雨に濡れた「やさと」も好きだ。

 (誰か、邪魔な電線を消してくれないかな〜。)


2016年3月23日

風邪が治った

 若い頃から、決まって今頃の季節になると、重い風邪をひいて2、3日寝込む。今年もそうだった。数日前から咳がだんだんひどくなり、とうとう春分の日はベッドの中で過ごした。やっと、昨日あたりから回復したようで、今朝は午前5時半に目が覚めた。小屋の外に出てみたら、空気は暖かく、山間の集落はうっすらと霞に包まれていた。山麓の杉林や農家の屋根瓦、土手のハコベや畑の麦など目に入る全ての風景が、しっとりとしていて瑞々しい。何もかもが新鮮に映る。まだ、心地よい夢から覚めきっていない感じである。昔から風邪が回復する過程で、いつもこの感じを味わった。やっと、寒い冬が過ぎて春が訪れ、苦しかった病が治ったのを心も体も喜んでいるのかもしれない。

 足元を見たら、いつの間にか二輪草が咲いていた。この花は2年前に植えたものだが、スプリング ・エフェメラルの仲間だけに、気づいてもらえるのは今頃だけ。外側に薄い紅をさした白い花と濃い緑の葉が、今朝はとくに瑞々しく見える。




2016年3月8日

アブラチャンの花が咲いた

 昨日、今日と異常なほど暖かい。昨夜、外に出たらカエルの鳴き声が聞こえた。彼らも急に春が来たので、慌てて産卵をしたようだ。きっと、水辺に行けばたくさんの卵が見つかるだろう。
 今朝もピーと一緒に庭の木を見て回った。アブラチャンは、先週やっと硬い冬芽が緩んで艶やかな芽鱗の間から新鮮な緑の部分がわずかに覗いたかと思ったら、今日は花が咲き始めていた。葉っぱの付いていない細い枝先に、線香花火のような黄緑色の小さな花が付いている。学名の「早熟な」が意味する通り、庭の木の中で一番早く咲いた。
 アブラチャンは、花もだが果実も真ん丸なビー玉のようで可愛い。名前も可愛い。漢字で書くと油瀝青」である。これは木に油分を多く含んでいて、果実から灯し油を絞ったからだそうだ。「可愛い」と言っても、それは花と実と名前だけで、幹は多数の株立ちとなって四方に暴れる。かわいそうだったが、今年は大幅に剪定した。




2016年2月21日

貧乏ライカ病の再発


一昨日、L39-m4/3アダプターリングなるものを、600円で入手したので、早速、昔集めた「怪しい」ライカのレンズを、最新のオリンパスのミラーレス一眼デジタルカメラに装着して撮影してみた。それが大成功で、シットリとした色合いとボケや光のクラデーションが実に美しい。その場の空気まで写し込んでいるようである(気のせいか?)。もっとも、「怪しい」レンズと言っても、これらのレンズは、第二次世界大戦後に当時の東ドイツにあったカールツァイス・イエナ工場の技術者と生産ラインを丸ごと旧ソ連に持ち去さり、有名なゾナーレンズにジュピーターという名前をつけて生産したものだから、見かけはショボいが光学的に優れているのは当然である。一緒に写っているカメラは、バルナック型ライカというもので、これは私と同年代で60歳をはるかに超える。それにしても、このデザイン、質感、重量、なんと美しいことか!惚れ惚れする。今でも、フィルムを入れればちゃんと写る。二度と日の目を見ることは無いと思っていたこれらのレンズたちが、再び活躍する時代が来るとは想像もできなかった。嬉しくてたまらない。
(上のピーが歩いている写真は、この怪しいレンズで撮影したものです。前の方のピントが合っていませんが、何しろマニュアルなもんで・・・)


2016年2月16日

村の街灯が灯る頃


 山小屋は、八郷盆地の中の更に小さな盆地、というより周囲を小高い山に囲まれた凹地にある。山裾を巡る道を歩いて一周すると約40分かかる。道の所々にある街灯に電灯が灯る頃になると、村のあちこちから人が出てきて、小さな盆地の周囲を右回り、あるいは左回りで散歩する。犬を連れたおばあちゃん、年配のご夫婦、若いカップル、全身を防寒着で身を包んだ男性、携帯電話を片手にした若い男性・・・。どこかの中年ご夫婦は、この春巣だつ子供のことだろうか、熱心に話し合いながら歩いている。若いカップルは、最近、近くに家を建てて越してきた人たちだろう。楽しそうだ。若い学生は、スマホに夢中だ。
 話す相手のいない僕は、もっぱら暮れかかった山里や澄んだ空に描かれた山並みのシルエットを眺めながら歩いている。ときどき、顔見知りの村人と会うと天候の事や最近の出来事などの短い挨拶を交わして通り過ぎる。ふっと、夕暮れの空気に良い香りが混じっていると思ったら、道脇の梅の花がだいぶ咲いていた。



2016年1月14日

日向ぼっこしながら読書



 最近、天気が良い日は、朝食を済ますと庭に出ていつもの椅子に座って日向ぼっこをするのが習慣になっている。その時、カップになみなみと注いだコーヒーとお気に入りの本を携えることも忘れない。今朝の本は、スウェーデンの医療心理学者であるニルス・ウッデンベリ著の『老人と猫』である。教授は「自分は猫を飼う柄ではないと抵抗しつつも、いつの間にかキティ(猫)のちょっとした表情や素振りに一喜一憂するようになり」、猫の心の中をあれこれ想像したり考察せずにはいられなくなってくる。ふたりの温かく、少しユーモラスな「ラブ・ストーリー」である。それに、アーネ・グスタフソンの描いたイラストが、可愛くて素敵だ。表紙の絵など、我が家のピーにそっくりだし、読み進めていくうちに、似ているのはイラストだけではなくて、彼の家のキティの仕草や環境までが同じなので思わず微笑んでしまった。また、彼の関心も僕と同じだ。すなわち「人と猫はどれだけ意思が通じあえるか?」、「猫には人間と同じ愛情や感謝などの感情があるのだろうか?」、「猫の世界を理解しよう!」ということである。この点、どうやら、ピーの方が賢そうだし、猫との関係も僕の方が彼より密接なようだ。だって、我が家のピーは呼べばちゃんと鳴いて答えるし、長く留守にして帰ってきた時などは、大喜びで出迎えてくれる。姿が見えない時でも、「僕はここだよ!」と小さく鳴いて居場所を教えてくれる。(・・・本を紹介するつもりが、つい猫自慢になってしまった。)

 そう、この本は、猫好きの人にもそうでない人にも一読に値する楽しい本だ。とくに今朝のような気持ちの良い朝、暖かな日差しを浴びながら脇に可愛い猫を侍らせて読むには最もふさわしい本である。



 

2016年1月1日

今年の初日の出







 明けましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。

 先ほど、かすみがうら市の雪入りふれあいの里公園から帰ってきました。毎年、ここで初日の出を迎えることにしているのです。暖かく穏やかな晴天に恵まれて、とても美しい日の出と出会えました。地平線の雲の切れ目から、暖かい赤色の太陽が力強く昇ってきました。今年は、良き年であるような予感に満ちた日の出でした。