2019年12月11日

行方市の夜刀神社

 玉造から北浦に向かって走っていると、途中に「夜刀神社(ヤトジンジャ)」の案内標識があってをいつも気になっていた。「夜刀(ヤト)」といえば、常陸風土記に伝説が載っている。なんでも角を生やした蛇の姿をしている奇怪な神である。今日は、思い切って見に行くことにした。
 丘陵に刻まれた暗い谷を下って行くと、池の中に鳥居が建っていた。鳥居の奥の崖下に、湧水がこんこんと湧いている。脇には「椎井池」の石柱が立っていた。行方市教育委員会の説明によると、6世紀初の継体天皇の時代、筈括氏麻多智(ヤハズノウヂマタチ)という人が、谷の葦原を開墾して田んぼにしようとしたところ、「夜刀神」が群れをなしてやってきて邪魔をした。そこで、麻多智は、山の入り口に神と人間が住む境界を作ったという。ここがその境界の地点である。その後孝徳天皇の時代(7世紀中)になって、初代行方郡の地頭である壬生連麿(ミブノムラジマロ)が、池を占領して堤防を築いたときにも、また「夜刀神」が現れて木に登って立ち去らなかったので、「目に見える一切のものは、全て打ち殺せ」の命令を発したそうである。そうしたら、皆逃げ去ったと。
 説明板によると「蛇は原住民の具象化であり、「夜刀」とは「谷人」であり谷津周辺の湧水近くに居住する人達と考えられる」とあった。ここで解った。「夜刀(ヤト)」とは「谷津(ヤツ)」であり、台地に切れ込んだ谷間の湿地のことなのである。そして、Wikipediaでは、「夜刀」を「開拓以前の野生状態の自然を可視化したもの、自然の持つ霊威を形象化したもの」となっているが、僕にはそんな綺麗事では無いように思える。背後には、もっと血生臭い歴史が秘められていて、稲作の耕作地を確保するための大和朝廷側の侵略や原住民との水利権をめぐる壮絶な争いがあったように思えてならない。

 千五百年も昔、この地で何があったのだろうか?この池の泉は、その頃からずう〜っと現在まで湧き続けているのだろうか?





2019年12月10日

雨が上がって

青柳の里は、雨が上がって静かな朝を迎えた。


庭の木々も、しっとりと濡れて、あちこちから雫の音が聞こえる。



2019年12月6日

祝!『Panezza茶屋』オープン


  

  以前にイタリアパン工房『Panezza』の始動をブログに書いたが、あれから6年、この度『Panezza』は、更に1ステップ飛躍した。昨日から『Panezza イタリア茶屋』をオープンしたのだ。ほとんどの昼食を外食に頼っている僕としては、この日が来るのを首を長くして待っていた。
 あの滋味深い彼のパンにイタリア産の生ハム。それに地元の有機野菜のサラダ。具材が豊富なミネストローネ スープ・・・。全てがナチュラルな食べ物ばかり。身体が喜んでいるのを実感する。こういうランチが食べたかったのだ。さらに、本格的なエスプレッソ コーヒーも飲める。ジェラートもある。


 15年ほど前に八郷に来た時は、蕎麦屋くらいしかなくて残念な思いをしていたが、ここ数年で次々と美味しいお店が誕生している。それもレベルが高い!  まさか、八郷の山の紅葉を愛でながら、本物のパンやエスプレッソを楽しめる時が来るとは思ってもみなかった。ここでは若い人の食に対する情熱と八郷の野菜や果物が結びつきつつあるのだ。新しい食文化が生まれつつあるのだ。この進化を心から喜びたい。


 Panezzaのパンは、現在のイタリアでも稀になった伝統的な製法で焼いている。それを日本の伝統的な民家の座敷で食べる。その稀有な出会いの喜びを、じっくりと噛み締めながら味会うべし(笑)。出来たら平日に訪れた方が、雰囲気をじっくり味会えるかも)



(参考)
Panezza茶屋の情報
Open. 9:00 〜17:00
定休日 火・水曜日

茨城県石岡市(八郷地区)弓弦688
0299-51-5401、090-4164-7839
yasato@panezza.jp




2019年12月4日

「かすみがうら市交流センター」にて


 天気があまりに良かったので、久しぶりに歩崎公園に行った。ここは、水平線を眺めて視界を解放したくなった時に訪れる場所だ。まず、レンタルサイクルの基地ともなっている「かすみがうら市交流センター」で、大きなガラス窓越しに水面を眺めながら、蓮根豚ハンバーガーを頬張りコーヒーを飲んだ。(二階は地元食材のレストランだが -笑)



 湖岸に出てみると、「ピョイ、ピョイ」といつになく騒がしい。たくさんのカモが護岸の上で日光浴をしていた。マガモ、コガモ、ヒドリガモ、カルガモの群れだ。マガモの首が午後の陽に照らされて青緑色に輝いている。水面では、カイツブリの夫婦が交代で水に潜っている。白っぽくてやや大きなカイツブリは、カンムリカイツブリだろうか? 双眼鏡を持ってこなかったのが悔やまれる。

 石岡市には、こんなお洒落で解放的な場所は一つも無い。「お祭り」騒ぎはもう結構。誰でも、いつでも快適に過ごせる空間が欲しい!



2019年11月27日

清音寺の秋

ここは清音寺(臨済宗南禅寺派)の参道。禅寺の凛とした空気が漂っている。
水戸光圀公によって「初音」と名付けられた古内茶の原木があり、境内に茶畑が広がる。







2019年11月24日

黒羽の「おくのほそ道」を探して

 雨が続いて、予定した山歩きは中止になった。でも、僕は、午後からは雨も止んで晴れると読んだので、予てから行ってみたかった那須の黒羽に車を走らせた。黒羽は、元禄2年(1689)4月(陽暦5月)に、松尾芭蕉と曽良が『おくのほそ道』の全行程でもっとも長い14日間滞在したところである。その間、黒羽の館代浄法寺図書(桃雪)と鹿子畑翠桃兄弟の家に泊まって、周辺の伝説や歴史の地を歩いている。僕も、そのうちのいくつかを廻ることにした。ただし、車で(笑)。



 先ずは、芭蕉が泊まっていた『旧浄法寺邸』からスタートした。昼近かったが、雨はいっこうに止む気配が無い。見学者は僕一人であたりはシーンと静まり返っている。広大な庭園は霧雨に包まれていて、しっとりと雨に濡れたもみじの紅葉が鮮やかだ。細い杉木立の道をたどった先には、「山も庭もうごき入るや夏座敷」の句碑がひっそりと建っていた。




 次は、すぐ近くの黒羽城の三の丸跡に建てられた『黒羽芭蕉の館』である。これは太田原市営の芭蕉をテーマとした小規模なミュージアムである。展示内容は、大したことなかったが、ここで一つ発見があった。蕉風俳諧の始めと言われる有名な「古池や、蛙とびこむ・・・・」の句が、彼の座禅の師家である仏頂和尚との問答の中で生まれたと書いてある書『芭蕉翁古池真伝(慶応四)』が展示されていたことである。これまでの俳諧は、金持ちの言葉遊びみたいなものだったが、それを変革して芸術にまで高めた芭蕉の背後には、やっぱり禅があったのだ。こうなっては、仏頂和尚の山居があった雲巌寺へ行かないわけにはいかない。芭蕉も行った。



 黒羽から10キロ以上も山に入ったところに『雲巌寺』はある。この寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、開山は平安時代後期とされているが、一旦は荒廃して、その後、弘安6年(1283)に北条時宗を大旦那として、高峰顕日(仏国国師)が改めて開山した。禅宗の日本四大道場の一つである。と言うよりは、吉永小百合のJR東日本「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉編)」で見た方も多いだろう。仏頂和尚の山居は、正面右の庫裏の背後にあったと言われ
ているが、禅を修行する寺であるが故に、一般者は奥には入れない。
しかたがないので、山門の脇にある芭蕉と仏頂和尚の句碑を写して寺を後にした。

 「縦横の五尺に足らぬ草の庵 
   むすぶもくやし雨なかりせば」 仏頂和尚
 「木琢も庵はやぶらず夏木立」 芭蕉 

 やはり、芭蕉の句は現地に行って見なければわからない。寺は、鬱蒼とした巨木の杉、檜に囲まれていて、奥からキツツキの突く音が聞こえてくるかのようだった。




 最後は、西行ゆかりの『遊行柳』である。それは、現地に行って見ると国道294号線脇の田んぼの中にポツンとあった。そこそこ大きなシダレ柳が2、3本と桜の木があるだけ。根元には苔むした西行の歌碑、芭蕉や蕪村の句碑が散らばっている。説明板が無ければ、その辺のどこにでもある田んぼ脇の空き地のようだ。しかし、ここは謡曲や芭蕉の句で有名なところである。きっと、柳の木そのものより、すぐ側には奥州街道(現294号線)が通っていて、10キロも先は白河の関だから、長い年月の間には様々な歴史の出来事が錯綜した場所なのだろう。周りの田んぼは、稲刈りがすっかり終わって、水たまりが冷たい空を映していた。

 「田一枚植えてたち去る柳かな」 芭蕉


おまけ:吉永小百合さんのCM → 「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉篇)」ロケ地情報





2019年11月22日

オオタニワタリ

 
 
 前から欲しかったマクロレンズを買ったので、早速、何かを写したくなった。2年前から育てているオオタニワタリが、テーブルの上にあったので被写体になってもらった。ちょうど今、新しい葉が伸び出している。ゼンマイのように巻いた葉を解きほどいて、あと一週間もすれば一人前の葉っぱになるだろう。初々しい新葉を透けた光が美しい。小屋の外は冷たい雨が降っているというのに、この植物は亜熱帯のジャングルを夢みている。



2019年11月17日

八郷盆地を眺めて



 小春日和の青空の下、月末に予定しているハイキングの下見で、難台山から東に連なる尾根を歩いた。紅葉や黄葉はまだ始まったばかりである。今年は遅れている上に、先月の台風で木の葉が痛んで期待したほどではない。知っている人の少ない展望ポイントで、八郷盆地を見下ろした。この方角からの眺めは初めてだ。刈り入れの終わった田んぼと丘陵の先に、筑波山から加波山に連なる山並みが横たわっている。ところどころに集落が点在している。

途中で見かけたリンドウ
一人でコーヒーを飲んでいたら、突然、藪がガサゴソして女性二人が現れた。むこうも、こんな所に人がいたので驚いた様子である。話をしたら、麓の集落に住む母親と若い娘さんだった。自分の娘に、八郷盆地の秋が、どれほど美しいか、どれほど良いところであるかを見せたくて連れて来たそうだ。きっと、娘さんも、自分が生まれ育ったこの土地が大好きなって、誇りに思ったことだろう。



2019年11月13日

近頃の水槽風景

 秋も深まって、庭の木々も色づき始めた。そんな中で小屋の水槽は、いつでも春だ。ヒーターで約22℃が保たれているので、水草は青々と繁って、次々と新たな芽を出している。メダカも、今だに卵を産んでいるし、エビも貝も、邪魔なほど繁殖している。以前の汚い藻はすっかり影を潜めて、水はいつでも澄んでいる。水槽が安定するのに半年はかかると本にあったが、これは本当だった。

 これから、外はだんだん寒なって枯れ色の世界になるが、この水槽だけはいつでも宝石のように緑に輝ている。暖かい部屋で、水槽をボンヤリ眺めながら飲むコーヒーは美味い。


2019年11月6日

センブリの花


 昨日、つくば市の雑木林を歩いていてセンブリの花を見つけた。背丈の割には大きな花をたくさんつけていて美しい。花びらには、細い紫色の線が入っている。センブリは「千回振り出(煮出すこと)しても苦い」と言われている通り、根、茎、葉、花の全てが非常に苦い。日本三大民間薬の一つで、薬効は胃腸虚弱、下痢、腹痛、発毛!などに効くそうだ。確かに、少々の二日酔いの時など、センブリの猛烈な苦味でシャッキとなりそうだ。僕は、この草の苦味を知らない人に葉を噛ませて顔を歪ませるのを見るのが密かな楽しみとなっている(笑)。
 
 センブリは、本来、日当たりの良い場所を好むが、現在では草原・松林の減少や雑木林の荒廃などで、そのような場所が全国的に減っている。それに伴ってセンブリも急激に減少して、府県によっては絶滅危惧種に指定されている。
 昔は、高価で取引されていて、長野県出身の友人などは、皆で、校舎の裏山に採集しに行き、校庭で乾燥して業者に売り、そのお金で学校の備品を揃えたそうだ。センブリの採集・販売は、田舎の子供や老人のよい小遣い稼ぎにもなっていた。

 現在では、なかなかお目にかかれないが、もし見つけたら葉を摘み取って、ぜひ強く噛んでみて下さい。気分爽快、胃腸軽快になることでしょう(笑)。






2019年11月1日

江戸崎の寺へ

 先日、雨の中を出かけたが、道がわからなくなってしまい行き着けなかった。今日は、流山の自宅からの帰り、再度挑戦した。行こうとしたのは、稲敷市江戸崎の「大念寺」と「瑞祥院」である。江戸崎といえば、「カボチャ」を思い浮かべる人が多かもしれないが、ここには中世の頃に「津」が置かれ、霞ヶ浦南岸の重要な漁業や軍事的拠点でとして集落が発達した。また近世になると水運、漁業の拠点として大いに栄えた。嘉慶元年(1387)には、美濃の土岐原氏が江戸崎城を築き、海夫を使って海賊を取り締まったり、その後200年間に渡って茨城県南一帯を支配した。天正18年(1590)に佐竹氏などに滅ぼされ、次に入った芦名盛重によって瑞風が会津から招かれて不動院の住職となった。この瑞風は、後に徳川家の重要なブレーンとなり上野寛永寺を開いた天海大僧正その人である。ここに江戸崎の寺院と徳川家との結びつきができる。 それにしても「海夫」とはどんな人たちなのだろう?興味あるな〜。

 
 最初訪れた浄土宗の大念寺は、天正18年に源誉慶厳によって開山された由緒ある寺で、坊さんの大学である「関東十八壇林」の一つである。山門を入ってすぐ右手に徳川家康のお手植えの銀杏(逆さ銀杏)がある。寺のいたるところに三つ葉葵の御紋が描かれている。しかし、現在では、どことなく荒れていて、そんな由緒ある寺とは到底思えない。僕が車を止めた駐車場のなどは、昔は多くの僧坊や伽藍が立ち並んでいたのだろうに。廃仏毀釈の嵐が、特に激しく吹き荒れた寺かもしれない。

 次は、そのすぐ東にある瑞祥院である。この寺は文和元年(1352)に、足利尊氏の開基によって創建されたとする臨済宗の寺である。本堂そのものは、樹木も少なく禅宗の古刹としての森厳さに欠ける。しかし、暗い竹林の中の細い道を登って行って裏山の頂に着くと、突然、多くの石像群が現れる。豊島和七という人が約20年をかけて文化元年(1804)に完成した「五百羅漢」である。一つひとつ顔の表情や仕草が違っている。笑っている坊主や怒っている坊主、困った顔をしているのや、悟ったかのようにすましたのもいる。もともと、羅漢とは「阿羅漢」のことで、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと」だが、どう見ても、その辺の街角でお茶を飲みながら世間話に興じている「おじいさん、おばあさん」のようなのが多い。そのせいか、一人一人に挨拶して回っているうちに、だんだん親しみが湧いて来て、帰る時に思わず「また、来るからね!」と言葉が出てしまった(笑)。振り向くと、石像群の先には小野川の河口と江戸崎の街並みが広がっていた。




2019年10月28日

金村別雷神社を訪問して



 来月初めに、つくば市の環境教育事業で小貝川流域を観察する。その下見として「金村別雷神社」に行った。全国でも珍しいことに、この神社は小貝川の堤防の内側、いわゆる河川敷の中にある。戦後、河川法によって人家が堤防外に移転を余儀なくされるまで、何と!参道の両脇には旅館や料理屋など約三十軒ほどが軒を連ねて栄えていたそうだ。現在は広大な敷地の中に、多数のケヤキやムクノキなどの巨木に囲まれて、本殿、神楽殿、社務所などが鎮座しているだけである。神社のすぐ傍には小貝川が流れている。昔、参拝者は船に乗ってお参りに来たという。祭りの神輿も本殿脇から小貝川に流したそうだ。まさに川辺の神社である。

 「雷」の文字が付く神社は、水辺や低湿地の微高地に祀られていることが多い。雷、水といえば農業と深く関係する。この神社の祭神である「別雷大神」も、雷や嵐によって、落雷や水害、風害などの災害を起こす面と、稲作に不可欠な水の恵みをもたらし、病虫害を駆除して豊作を約束する面の両方を持っている。元々は農業神として五穀豊穣を祈願するのが主だったが、最近は家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛と近代化して多様となっているようだ(笑)。

 社殿で目を引いたのは色鮮やかな多数の天井絵(写真)である。花鳥画を得意とした先々代の宮司が描いたそうだ。見ると、草花、果物、昆虫、小鳥、小動物、樹木、野菜などが、びっしりと描かれている。中で最も多いのは野菜の絵である。100種ぐらいはあるかもしれない。これは何だろうかと一枚一枚を見ていると切りがない。こんな天井絵は初めてだ。いかにも、この別雷神社の性格を現しているようで微笑ましかった。ここに参拝に来た農民が、自分が育てている野菜を見つけて喜んでいる姿が思い浮ばれた。



 社殿から出ようとしたら、カッコいいマーク(写真)を見つけた。聞いたら神社のお印だという。丸くなっている龍の図柄である。目の表情が可愛い。「可愛い」なんて言ったら畏れ多い。これは、神社の鎮座地を支配していた豊田将基が中世の前九年の役で源義家に随伴して戦に臨んだが、阿武隈川が渡れず苦労していた時に後冷泉天皇から勅許された龍旗から龍が飛び出して、その上を渡って敵陣に切り込むことができたという故事に基づいている。その龍旗をモチーフにして作られたものだそうだ。でも、僕には現代的なデザインに見えてしまう。





 
 




2019年10月27日

笠間の文化財公開

 生まれて初めて「スタンプ・ラリー」なるものをやってきた。昨日と今日は、二年に一度の笠間市の文化財公開日だった。普段では見ることができない貴重な文化財が、この二日間に限って特別公開されるのだ。しかも、専門家、大学生や高校生による解説と資料付きである。こんなことは滅多にない。ずっと前から楽しみにしていた。


 特に、僕は今回公開されている文化財のうち、国指定重要文化財となっている弥勒協会の「木造弥勒菩薩立像」、楞厳寺の「木造千手観音立像」、それに岩谷寺の「木造薬師如来立像」をぜひとも拝観したかった。これらの仏像は、鎌倉時代に初代笠間城主の笠間時朝が発願して作らせた「笠間六仏」言われるものの内の現存する三体である。他に時朝は京都の三十三間堂にも二体の仏像を寄進している。いずれの仏像も優美で、やや高い位置から澄み切った眼差しを優しく投げかけている。なぜ、こんな田舎(失礼!)に、これほどの仏像が集中しているのかを解説員に投げかけたところ、時朝は、京都の冷泉家ともつながりのある歌人でもあり、高い教養人だったという。都と北関東の笠間とが、もうこの頃から文化的に深く繋がっていたとは驚きである。岩谷寺の薬師如来立像の後ろに回って、背面に「建長四年壬子七月 従五位上行長門守藤原朝臣時朝」という刻銘を見つけた時は感動した。800年の時を経て、僕の前に立っている!



 弥勒協会の「木造弥勒菩薩立像」も印象深かった。笠間市街の北方、細い集落の道を進んだ山中にそれはあった。かつてここには「石城寺」という寺院があったが、明治の廃仏毀釈で廃寺になった。その後、弥勒仏立像は村人などによって保管されていたが、ついに石城寺跡にお堂が建てられ管理されることになった。なぜ、こんな奥地にという疑問は解けないが、この仏像は笠間時朝が最初に作らせた仏像であり、彼にとって殊の外思い入れのある仏像なのに違いない。なぜなら右足の内側に「時朝同身(之)弥勒」と墨書されているからである。自分と同じ背丈に造らせたのだ。弥勒菩薩像は、山の斜面からやや上向き加減の澄んだ眼差しで遠く笠間盆地の方角を眺めている。笠間が浄土であるようにと。


 ここまで来たら、スタンプが3っそろった。案内の人が、あと一つ何処かに行けば、記念の「絵葉書セット」が貰えるという。これまでの仏像は全て撮影禁止である。そこで仏像の絵葉書がどうしても欲しくなった。残り時間は1時間。急げば間に合う。という訳で、笠間の「真浄寺」と手越の「東性寺」を回って、念願の「記念 絵葉書セット」をもらうことができた。結果、笠間市教育委員会生涯学習課の意図した通り、思いがけず「スタンプ・ラリー」に参加してしまった。



 

2019年10月23日

展望広場で『Cafe NOMAD』

 
 せっかくコーヒーを淹れたというのに誰も来ない。ちゃんとカップもコーヒーも二杯分を用意したのに。僕専用のカフェ。(本当は、その方が良いのだが・・・)

 朝起きたたら、抜けるような快晴の天気だった。こんな日を山小屋で過ごすのはもったいない。そこで、どこか見晴らしの良いところで Cafe NOMAD を開くことにした。そこで、以前歩いたことのある愛宕山から難台山へ向かう途中にあった展望広場を思い出した。あそこなら簡単に行けるし、木のテーブルもベンチも置いてある。ほとんど訪れる人もいない尾根上の静かな空間。こんな気持ちの良い広場を独り占めできる。


 見上げると真っ青な空に白い雲の塊がポツンと浮かんでいる。爽やかな風が吹いている。旅する蝶のアサギマダラがヒラヒラと優雅に舞っている。立木が大きく育って、展望は期待ほどでもなかったが、それでも目を凝らすと涸沼や水戸の街並み、そして大洗のタワーが見える。さらにその先の方に海までも見える。
 展望に見とれているうちにお湯が沸いた。次はドリップだ。今日の豆はコロンビア。何も急ぐことはない。じっくりとコーヒーを落として、一滴一滴を味わって飲もう。時間はたっぷりある。



2019年10月21日

また一つ、茅葺き屋根が消える







また一つ、八郷を代表する茅葺き屋根の古民家が消える。上青柳のKさん宅の取り壊しが始まった。その跡に新しい家を建てるそうだ。
あの美しい佇まいが、もう二度と見られないと思うとたまらなく寂しい!でも、一番寂しい思いをしているのは、おじいちゃんだろう。あれほど、この家を誇りに思って大切にしていたのだから。
「残念」というのは、外部の者の言う言葉。茅葺き職人も高齢なって維持が困難になっている。それに、現代の生活には合わなくなった部分もあるかもしれない。
「長い間、ご苦労さん!美しい八郷の風景を作ってくれてありがとう」と言って、古民家に別れを告げよう。




2019年10月19日

ガラジでのタンゴ・コンサート

 

 極上の時間を味わってきた。小林萌里さん(ピアノ)と外薗美穂さん(ヴァイオリン)のTango Duo Concert があったのだ。会場は笠間市上加賀田の『ガラジ』。ここは、昔ブタ小屋だったのを改造して、今はアーティストたちの発表の場になっている。難台山の北斜面の高台あって、笠間盆地とそれを囲む山々が一望できる美しい場所だ。周囲は栗畑が一面に広がり、その間に埋もれるようにして農家が点在する。


 窓辺に灯したロウソクの炎が揺らめく。窓からは暮れ行く空が青白く光っている。むき出しの木材と土壁に囲まれた室内にピアノとヴァイオリンの音色が心地よく響く。タンゴの哀愁を帯びた音色が『ガラジ』の雰囲気とうまく溶け合っている。窓から外を見ながらPiazzollaのスローな曲を聴いていたら、突然、胸に迫るものがあって目がウルウルしてしまった。一瞬、時間も空間も忘れてしまったような気持ちになった。どうやら音楽の魔法にかかったらしい。本当に大丈夫か? 夢の世界から現実に戻って、ちゃんと暗闇の道祖神峠を越えて八郷に帰れるだろうか?(笑)





2019年10月13日

筑波山の展望


 今日も筑波山頂で開催されている『自然展』に向かった。ところが、昨日の台風被害でケーブルカーが不通なので、ロープウエイを使って上った。登山道には吹き飛ばされてきた木の葉が一面に落ちている。折れたブナの大枝が道を塞いでいる。せっかく上ったのに『自然展』は中止。それでも、上った甲斐はあった。空気が澄んで、遠くまで展望がきく。見上げると吸い込まれそうな青空だ。

 でも、この展望風景(写真)の中には、昨日の台風の爪痕がいくつも潜んでいる。まずは、足元の桜川である。つくば市や桜川市の至る所で水が土手を超えて流れ出し、田んぼを浸水して集落に迫っている。その先の小貝川や鬼怒川でも川筋が大きく膨らんでいる箇所がいくつもあるのが見て取れる。
 更にその先の地平線近くに視線を向けると、白く輝いている横筋が見える。東京湾である(写真中央左)。双眼鏡で見ると何艘もの船が浮かんでいる。台風の風を避けて沖に出ているのだろうか。海の上に黒く横にたなびいているのは房総半島(写真左)。先端に製鉄所の煙突が見える。その向かい側(写真右)は三浦半島だ。東京都心部のビル群のはるか先(写真右端)にうっすらと見える影は、伊豆半島の山々である。

 目を西に転ずると、箱根、丹沢、富士山、奥多摩、秩父、アルプス、そして群馬と長野の県境の山々へと続く。東に転ずると、霞ヶ浦、その先に鹿島の工業地帯。そして白く横にたなびいているのは太平洋の水平線だ。
 筑波山から伊豆半島まで見えるとは驚きだ!関東平野なんて狭いもんだ(笑)。




2019年10月11日

葦穂山を望む

 大型の台風が近ずきつつあるというのに、今日は筑波山の山頂で開催されている臨時のビジターセンター『筑波山の自然展』に参加した。山頂は、朝から霧に包まれていて展望がきかない。登山者も来場者もまばらである。そんな日でも、時折、雲海の上に周囲の山が顔を出す。

 写真は、加波山(左)から足尾山=葦穂山(右)の山並みである。その中央の凹みが、「有名」な一本杉峠である。以前は真壁側と八郷側を結ぶ道路が通じていて車も通れたが、現在では真壁側に降りられない。なぜ「有名」かというと、昔、この峠は西側の新治郡と東側の笠間や国府を結ぶ重要な交通路だったからである。『常陸風土記』に、「新治郡の郡衙(旧協和町付近)の東五十里の所に笠間村があり、そこへ通うには葦穂山を超えねばならない。古老がいうには、ずうっと昔のこと、葦穂山には、アブラオキメノミコト(油置売の命)という山姥が住んでいて、峠を越えようとする旅人を襲って殺し物品を奪った」との伝説が記されている。その後、山姥が住んでいたと言われる石室は、万葉集の中で何首も謳われている。次の情熱的な歌が有名である。
  「こちたけば をはつせ山の岩城にも 率て籠もらなむ な恋ひそ我妹」
意味は、皆から二人の仲を言い騒がれて、うるさいから小泊瀬山(葦穂山)の岩室に、あなたを連れて行って一緒にこもろうよ!私の愛しい人よ! というものである。

 多分、僕は、この「アブラオキメノミコト」というのは、大和朝廷によって滅ぼされた原住民すなわち「土蜘蛛」と言われている人たちの生き残こりではないかと思っている。だから、女山賊という悪者に仕立てたというような気がする。

 岩室なら、現在でも残っているはずである。誰か一緒に探しに行きませんか? 決して「率て籠もらなむ」なんて言いません(笑)。




2019年10月9日

久しぶりの『Cafe NOMAD』



 今日は秋晴れの天気。台風が来る前に、海を見ておこうと九十九里海岸に行った。まだ、あの辺では美味しいコーヒーを飲ませてくれる店を見つけていない。そこで、久しぶりに『Cafe NOMAD』をオープンすることにした。

 砂浜の流木に座って、コーヒー沸かし、一人で飲む。聞こえるのは、ゴ〜〜、ゴ〜〜という白波の打ち寄せる音だけ。数羽のカモメが近づいてきた。遠くの海上ではサーフィンの若者が3人、大波を捕まえて、うまく滑ったり、振り落とされたり。強い日差しで肌がヒリヒリするほど。海風が気持ち良い。

やはり、僕の『Cafe NOMAD』のコーヒーは、最高に美味い!




2019年10月2日

香取神宮の茶店

 流山の自宅に帰る途中、すごく遠回りして千葉県香取市の『香取神宮』に立ち寄った。別に神社に参拝するのが目的では無い。古い神社や寺の森が自然と醸し出す清々しい雰囲気が好きなのだ。この空気を味わいたくて訪れたのだ。


 拝殿を過ぎ裏手に回って、杉の巨木の間をしばらく進んでいくと、少し開けた場所に出た。そこで一軒の茶店を見つけた。こんな所にという驚きともに、そのいかにも茶屋らしい風情に感激した。メニューは、香取神宮名物の団子、ところてん、甘酒、ラーメンに焼きそば、店先には木刀に漬物の瓶詰め、おもちゃなど、茶店の定番が揃っている。もちろん、お客は僕一人だけ。


この茶屋は、120年前からここにあり、利根川から上陸して参拝に来た客を迎えた。現在では、すっかり木々が茂って視界を遮っているが、昔は店の座敷から利根川が見えたそうだ。老主人は、その頃の写真を指差して、「ほら、お客さんの座っているところが写っているでしょう」という。写真をよく見ると、うっすらと利根川の流れが写っている。店の前の石灯籠は関東大震災で倒壊したというから、この写真はそれ以前に写されたものだろう。家の中から生えている松の大木は、主人が子供の頃にはまだあったそうだ。
 

 座敷に座り、お茶を飲みながらお団子を食べていると、気分はすっかり明治時代の参拝客のよう。


 

 
 






2019年9月30日

湖畔にて




いつもの場所で土手に座ってジンジャエールを飲みながら、霞ヶ浦を眺める。
空が青い。風が気持ちいい。






2019年9月14日

「中秋の名月」の晩

一旦はベットに潜り込んだものの、今夜は、「仲秋の名月」だと気が付いて、また起きて空を見あげた。美しい月が輝いていた。この本を紹介するなら、今夜をおいて他には無い。
 
 毎日のようにニュースから欲望や無知から生ずる不幸な出来事や悲惨な事件が流れてくる。まるで、仏教でいう六道の地獄や阿修羅の世界からの実況中継のようだ。やっと寝付けて、楽しい夢でも見ようかとしても、夜中に目が覚めて漠然とした心配事が気になって眠れない。

 こんな時の為に、『寒山拾得』(久須本文雄訳、解釈 講談社1995)が、常に僕の枕元には置いてある。ページを適当にめくって、2、3の漢詩を拾い読みする。そして何度も何度も解釈や情景の想像を繰り返しているうちに、不思議なことに、いつの間にか眠ってしまう(笑)。
 この作者の「寒山」という人物は、中国の唐時代に生存したとされているが、実在したかどうかも疑わしい。何しろ「蓬頭垢面、断衫破衣」、まるで浮浪者のようで、険しい山から里に降りて来ては食料を貰い、壁や木や石に詩を書きつけたという。それらを収集したものが『寒山詩』である。寒山詩では、悠々自適の境界、自然風景、自由の境地、人生の教訓などが詠われている。いずれの詩も超俗的であり極めて格調が高く、禅味溢れるものばかりだ。
 その中の一つ、今夜の月にふさわしい、有名な詩を紹介する。
「吾が心秋月に似たり 碧潭(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり
 物の比倫に堪(た)うる無し 我をして如何(いかん)ぞ説からしめん」

現代語訳「自分の心は、秋の夜空に輝く明月が、澄みきった緑の深い淵の底までも、清くすき通って光り輝いているのに似ている。この清明な心に比べることのできるものは外に何もない。それで、どう説明したらよいのかその言葉もない。(久須本文雄訳)」

こういう境地にはどうしたらなれるのだろうか? どんな修行をすればいいのだろうか?

・・・「あっ! いつの間にか日付けが変わってしまった。もう眠れるだろう(笑)」


2019年9月10日

台風が去って


台風が残した大波を求めて、九十九里の海岸には、いつになくサーファーが集まっていた。秋の日差しが彼らの赤銅色の肌と打ち寄せる波頭を照らしている。
「何と、僕の日常とは異なった世界なんだろう!」
無心になって波と光とに戯れている彼らが羨ましかった。

2019年9月7日

歩崎で抹茶を飲む

 
 今日は空が澄んで雲を見るのに相応しい天気だ。いつものように歩崎に行った。時間はたっぷりある。そこで、かすみがうら市の『あゆみ庵』で抹茶をいただくことにした。
 迎えてくれたのは3人のお婆さん。その内の一人は90歳だと言う。客は僕一人だけ。端正な薄茶用の部屋はひっそりと静まっている。窓からは茶室を囲む木々の緑が見える。床の間の掛け軸は元大徳寺管長の「喫茶去」の書。花は秋の野菊とワレモコウ。部屋の澄みきった空気を深く吸い込んだ。茶菓子をいただき、お薄を飲んだら、朝からしつこかった偏頭痛もすっかり忘れた。

 お婆さんによると、30年も前から、ここでお茶を点てていると言う。最近は、来客がめっきり減ってしまい、今は土、日曜だけ開けているそうだ。お菓子代200円で、こんな静謐な時間をたっぷり与えてくれる場所なんて、他にそうあるものではないのに。




2019年9月1日

秋葉峠からの眺め



 朝日峠から浅間山まで歩いた。途中の秋葉峠は、僕が八郷盆地に足を踏み入れるきっかけとなった思い出の地だ。20年も昔のあの時、いくつもの山並みの彼方にそびえる筑波山の美しい山容を初めて見た時の感動は、今でも鮮明に覚えている。
 誰でも、自分の住んでいる土地から眺めた姿が一番だと言うが、僕は、ここからの眺めが最高だと思っている。

2019年8月30日

桜川の源流ー鏡ヶ池



写真は桜川の源といわれる「鏡ヶ池」である。この鏡ヶ池から流れ出た水は、筑西市をかすめ、桜川市を縦断してつくば市、土浦市を経て、霞ヶ浦に注ぐ。
 桜川は、延長が約63kmと短いが、多くの物語に富んでいる。この鏡ヶ池の名前からして日本武尊がこの水面を鏡がわりに姿を映したことから名付けられたと伝えられている。また花園天皇の代に「みせみせぬ鏡ヶ池におしとりはみつから顔をならべぞいる」と歌われている。いかなる日照りが続いても水が涸れることがないそうだ。
 ここから、少し下ったところに桜川磯部稲村神社がある。昔訪れた時に、境内に桜川を詠った紀貫之の歌碑があるのを見つけて驚いた。まさか、紀貫之がこの地まで来たとは思えないが、桜川の評判は都まで届いていた証である。
 また、桜川は、世阿弥元清がこの地を舞台にして謡曲『桜川』を作ったことでも有名である。あらすじは下記のURLを見ていただくとして、母と子の別離、川面を流れる桜の花びらをすくいながら踊る狂女、そして二人の再会・・・。その哀しくも美しい幽玄的なイメージを抱いて、現地を訪れるとちょっとガッカリするかも知れない。が、話は室町時代以前のことだから仕方がない(笑)。
 桜川は「短い」と書いたが、こんな調子で書いていたら、まだまだ続く。今回はこの辺で止めにする。
それにしても、鏡ヶ池には河骨が群生していた。珍しい!