2019年9月30日

湖畔にて




いつもの場所で土手に座ってジンジャエールを飲みながら、霞ヶ浦を眺める。
空が青い。風が気持ちいい。






2019年9月14日

「中秋の名月」の晩

一旦はベットに潜り込んだものの、今夜は、「仲秋の名月」だと気が付いて、また起きて空を見あげた。美しい月が輝いていた。この本を紹介するなら、今夜をおいて他には無い。
 
 毎日のようにニュースから欲望や無知から生ずる不幸な出来事や悲惨な事件が流れてくる。まるで、仏教でいう六道の地獄や阿修羅の世界からの実況中継のようだ。やっと寝付けて、楽しい夢でも見ようかとしても、夜中に目が覚めて漠然とした心配事が気になって眠れない。

 こんな時の為に、『寒山拾得』(久須本文雄訳、解釈 講談社1995)が、常に僕の枕元には置いてある。ページを適当にめくって、2、3の漢詩を拾い読みする。そして何度も何度も解釈や情景の想像を繰り返しているうちに、不思議なことに、いつの間にか眠ってしまう(笑)。
 この作者の「寒山」という人物は、中国の唐時代に生存したとされているが、実在したかどうかも疑わしい。何しろ「蓬頭垢面、断衫破衣」、まるで浮浪者のようで、険しい山から里に降りて来ては食料を貰い、壁や木や石に詩を書きつけたという。それらを収集したものが『寒山詩』である。寒山詩では、悠々自適の境界、自然風景、自由の境地、人生の教訓などが詠われている。いずれの詩も超俗的であり極めて格調が高く、禅味溢れるものばかりだ。
 その中の一つ、今夜の月にふさわしい、有名な詩を紹介する。
「吾が心秋月に似たり 碧潭(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり
 物の比倫に堪(た)うる無し 我をして如何(いかん)ぞ説からしめん」

現代語訳「自分の心は、秋の夜空に輝く明月が、澄みきった緑の深い淵の底までも、清くすき通って光り輝いているのに似ている。この清明な心に比べることのできるものは外に何もない。それで、どう説明したらよいのかその言葉もない。(久須本文雄訳)」

こういう境地にはどうしたらなれるのだろうか? どんな修行をすればいいのだろうか?

・・・「あっ! いつの間にか日付けが変わってしまった。もう眠れるだろう(笑)」


2019年9月10日

台風が去って


台風が残した大波を求めて、九十九里の海岸には、いつになくサーファーが集まっていた。秋の日差しが彼らの赤銅色の肌と打ち寄せる波頭を照らしている。
「何と、僕の日常とは異なった世界なんだろう!」
無心になって波と光とに戯れている彼らが羨ましかった。

2019年9月7日

歩崎で抹茶を飲む

 
 今日は空が澄んで雲を見るのに相応しい天気だ。いつものように歩崎に行った。時間はたっぷりある。そこで、かすみがうら市の『あゆみ庵』で抹茶をいただくことにした。
 迎えてくれたのは3人のお婆さん。その内の一人は90歳だと言う。客は僕一人だけ。端正な薄茶用の部屋はひっそりと静まっている。窓からは茶室を囲む木々の緑が見える。床の間の掛け軸は元大徳寺管長の「喫茶去」の書。花は秋の野菊とワレモコウ。部屋の澄みきった空気を深く吸い込んだ。茶菓子をいただき、お薄を飲んだら、朝からしつこかった偏頭痛もすっかり忘れた。

 お婆さんによると、30年も前から、ここでお茶を点てていると言う。最近は、来客がめっきり減ってしまい、今は土、日曜だけ開けているそうだ。お菓子代200円で、こんな静謐な時間をたっぷり与えてくれる場所なんて、他にそうあるものではないのに。




2019年9月1日

秋葉峠からの眺め



 朝日峠から浅間山まで歩いた。途中の秋葉峠は、僕が八郷盆地に足を踏み入れるきっかけとなった思い出の地だ。20年も昔のあの時、いくつもの山並みの彼方にそびえる筑波山の美しい山容を初めて見た時の感動は、今でも鮮明に覚えている。
 誰でも、自分の住んでいる土地から眺めた姿が一番だと言うが、僕は、ここからの眺めが最高だと思っている。