2019年10月28日

金村別雷神社を訪問して



 来月初めに、つくば市の環境教育事業で小貝川流域を観察する。その下見として「金村別雷神社」に行った。全国でも珍しいことに、この神社は小貝川の堤防の内側、いわゆる河川敷の中にある。戦後、河川法によって人家が堤防外に移転を余儀なくされるまで、何と!参道の両脇には旅館や料理屋など約三十軒ほどが軒を連ねて栄えていたそうだ。現在は広大な敷地の中に、多数のケヤキやムクノキなどの巨木に囲まれて、本殿、神楽殿、社務所などが鎮座しているだけである。神社のすぐ傍には小貝川が流れている。昔、参拝者は船に乗ってお参りに来たという。祭りの神輿も本殿脇から小貝川に流したそうだ。まさに川辺の神社である。

 「雷」の文字が付く神社は、水辺や低湿地の微高地に祀られていることが多い。雷、水といえば農業と深く関係する。この神社の祭神である「別雷大神」も、雷や嵐によって、落雷や水害、風害などの災害を起こす面と、稲作に不可欠な水の恵みをもたらし、病虫害を駆除して豊作を約束する面の両方を持っている。元々は農業神として五穀豊穣を祈願するのが主だったが、最近は家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛と近代化して多様となっているようだ(笑)。

 社殿で目を引いたのは色鮮やかな多数の天井絵(写真)である。花鳥画を得意とした先々代の宮司が描いたそうだ。見ると、草花、果物、昆虫、小鳥、小動物、樹木、野菜などが、びっしりと描かれている。中で最も多いのは野菜の絵である。100種ぐらいはあるかもしれない。これは何だろうかと一枚一枚を見ていると切りがない。こんな天井絵は初めてだ。いかにも、この別雷神社の性格を現しているようで微笑ましかった。ここに参拝に来た農民が、自分が育てている野菜を見つけて喜んでいる姿が思い浮ばれた。



 社殿から出ようとしたら、カッコいいマーク(写真)を見つけた。聞いたら神社のお印だという。丸くなっている龍の図柄である。目の表情が可愛い。「可愛い」なんて言ったら畏れ多い。これは、神社の鎮座地を支配していた豊田将基が中世の前九年の役で源義家に随伴して戦に臨んだが、阿武隈川が渡れず苦労していた時に後冷泉天皇から勅許された龍旗から龍が飛び出して、その上を渡って敵陣に切り込むことができたという故事に基づいている。その龍旗をモチーフにして作られたものだそうだ。でも、僕には現代的なデザインに見えてしまう。





 
 




2019年10月27日

笠間の文化財公開

 生まれて初めて「スタンプ・ラリー」なるものをやってきた。昨日と今日は、二年に一度の笠間市の文化財公開日だった。普段では見ることができない貴重な文化財が、この二日間に限って特別公開されるのだ。しかも、専門家、大学生や高校生による解説と資料付きである。こんなことは滅多にない。ずっと前から楽しみにしていた。


 特に、僕は今回公開されている文化財のうち、国指定重要文化財となっている弥勒協会の「木造弥勒菩薩立像」、楞厳寺の「木造千手観音立像」、それに岩谷寺の「木造薬師如来立像」をぜひとも拝観したかった。これらの仏像は、鎌倉時代に初代笠間城主の笠間時朝が発願して作らせた「笠間六仏」言われるものの内の現存する三体である。他に時朝は京都の三十三間堂にも二体の仏像を寄進している。いずれの仏像も優美で、やや高い位置から澄み切った眼差しを優しく投げかけている。なぜ、こんな田舎(失礼!)に、これほどの仏像が集中しているのかを解説員に投げかけたところ、時朝は、京都の冷泉家ともつながりのある歌人でもあり、高い教養人だったという。都と北関東の笠間とが、もうこの頃から文化的に深く繋がっていたとは驚きである。岩谷寺の薬師如来立像の後ろに回って、背面に「建長四年壬子七月 従五位上行長門守藤原朝臣時朝」という刻銘を見つけた時は感動した。800年の時を経て、僕の前に立っている!



 弥勒協会の「木造弥勒菩薩立像」も印象深かった。笠間市街の北方、細い集落の道を進んだ山中にそれはあった。かつてここには「石城寺」という寺院があったが、明治の廃仏毀釈で廃寺になった。その後、弥勒仏立像は村人などによって保管されていたが、ついに石城寺跡にお堂が建てられ管理されることになった。なぜ、こんな奥地にという疑問は解けないが、この仏像は笠間時朝が最初に作らせた仏像であり、彼にとって殊の外思い入れのある仏像なのに違いない。なぜなら右足の内側に「時朝同身(之)弥勒」と墨書されているからである。自分と同じ背丈に造らせたのだ。弥勒菩薩像は、山の斜面からやや上向き加減の澄んだ眼差しで遠く笠間盆地の方角を眺めている。笠間が浄土であるようにと。


 ここまで来たら、スタンプが3っそろった。案内の人が、あと一つ何処かに行けば、記念の「絵葉書セット」が貰えるという。これまでの仏像は全て撮影禁止である。そこで仏像の絵葉書がどうしても欲しくなった。残り時間は1時間。急げば間に合う。という訳で、笠間の「真浄寺」と手越の「東性寺」を回って、念願の「記念 絵葉書セット」をもらうことができた。結果、笠間市教育委員会生涯学習課の意図した通り、思いがけず「スタンプ・ラリー」に参加してしまった。



 

2019年10月23日

展望広場で『Cafe NOMAD』

 
 せっかくコーヒーを淹れたというのに誰も来ない。ちゃんとカップもコーヒーも二杯分を用意したのに。僕専用のカフェ。(本当は、その方が良いのだが・・・)

 朝起きたたら、抜けるような快晴の天気だった。こんな日を山小屋で過ごすのはもったいない。そこで、どこか見晴らしの良いところで Cafe NOMAD を開くことにした。そこで、以前歩いたことのある愛宕山から難台山へ向かう途中にあった展望広場を思い出した。あそこなら簡単に行けるし、木のテーブルもベンチも置いてある。ほとんど訪れる人もいない尾根上の静かな空間。こんな気持ちの良い広場を独り占めできる。


 見上げると真っ青な空に白い雲の塊がポツンと浮かんでいる。爽やかな風が吹いている。旅する蝶のアサギマダラがヒラヒラと優雅に舞っている。立木が大きく育って、展望は期待ほどでもなかったが、それでも目を凝らすと涸沼や水戸の街並み、そして大洗のタワーが見える。さらにその先の方に海までも見える。
 展望に見とれているうちにお湯が沸いた。次はドリップだ。今日の豆はコロンビア。何も急ぐことはない。じっくりとコーヒーを落として、一滴一滴を味わって飲もう。時間はたっぷりある。



2019年10月21日

また一つ、茅葺き屋根が消える







また一つ、八郷を代表する茅葺き屋根の古民家が消える。上青柳のKさん宅の取り壊しが始まった。その跡に新しい家を建てるそうだ。
あの美しい佇まいが、もう二度と見られないと思うとたまらなく寂しい!でも、一番寂しい思いをしているのは、おじいちゃんだろう。あれほど、この家を誇りに思って大切にしていたのだから。
「残念」というのは、外部の者の言う言葉。茅葺き職人も高齢なって維持が困難になっている。それに、現代の生活には合わなくなった部分もあるかもしれない。
「長い間、ご苦労さん!美しい八郷の風景を作ってくれてありがとう」と言って、古民家に別れを告げよう。




2019年10月19日

ガラジでのタンゴ・コンサート

 

 極上の時間を味わってきた。小林萌里さん(ピアノ)と外薗美穂さん(ヴァイオリン)のTango Duo Concert があったのだ。会場は笠間市上加賀田の『ガラジ』。ここは、昔ブタ小屋だったのを改造して、今はアーティストたちの発表の場になっている。難台山の北斜面の高台あって、笠間盆地とそれを囲む山々が一望できる美しい場所だ。周囲は栗畑が一面に広がり、その間に埋もれるようにして農家が点在する。


 窓辺に灯したロウソクの炎が揺らめく。窓からは暮れ行く空が青白く光っている。むき出しの木材と土壁に囲まれた室内にピアノとヴァイオリンの音色が心地よく響く。タンゴの哀愁を帯びた音色が『ガラジ』の雰囲気とうまく溶け合っている。窓から外を見ながらPiazzollaのスローな曲を聴いていたら、突然、胸に迫るものがあって目がウルウルしてしまった。一瞬、時間も空間も忘れてしまったような気持ちになった。どうやら音楽の魔法にかかったらしい。本当に大丈夫か? 夢の世界から現実に戻って、ちゃんと暗闇の道祖神峠を越えて八郷に帰れるだろうか?(笑)





2019年10月13日

筑波山の展望


 今日も筑波山頂で開催されている『自然展』に向かった。ところが、昨日の台風被害でケーブルカーが不通なので、ロープウエイを使って上った。登山道には吹き飛ばされてきた木の葉が一面に落ちている。折れたブナの大枝が道を塞いでいる。せっかく上ったのに『自然展』は中止。それでも、上った甲斐はあった。空気が澄んで、遠くまで展望がきく。見上げると吸い込まれそうな青空だ。

 でも、この展望風景(写真)の中には、昨日の台風の爪痕がいくつも潜んでいる。まずは、足元の桜川である。つくば市や桜川市の至る所で水が土手を超えて流れ出し、田んぼを浸水して集落に迫っている。その先の小貝川や鬼怒川でも川筋が大きく膨らんでいる箇所がいくつもあるのが見て取れる。
 更にその先の地平線近くに視線を向けると、白く輝いている横筋が見える。東京湾である(写真中央左)。双眼鏡で見ると何艘もの船が浮かんでいる。台風の風を避けて沖に出ているのだろうか。海の上に黒く横にたなびいているのは房総半島(写真左)。先端に製鉄所の煙突が見える。その向かい側(写真右)は三浦半島だ。東京都心部のビル群のはるか先(写真右端)にうっすらと見える影は、伊豆半島の山々である。

 目を西に転ずると、箱根、丹沢、富士山、奥多摩、秩父、アルプス、そして群馬と長野の県境の山々へと続く。東に転ずると、霞ヶ浦、その先に鹿島の工業地帯。そして白く横にたなびいているのは太平洋の水平線だ。
 筑波山から伊豆半島まで見えるとは驚きだ!関東平野なんて狭いもんだ(笑)。




2019年10月11日

葦穂山を望む

 大型の台風が近ずきつつあるというのに、今日は筑波山の山頂で開催されている臨時のビジターセンター『筑波山の自然展』に参加した。山頂は、朝から霧に包まれていて展望がきかない。登山者も来場者もまばらである。そんな日でも、時折、雲海の上に周囲の山が顔を出す。

 写真は、加波山(左)から足尾山=葦穂山(右)の山並みである。その中央の凹みが、「有名」な一本杉峠である。以前は真壁側と八郷側を結ぶ道路が通じていて車も通れたが、現在では真壁側に降りられない。なぜ「有名」かというと、昔、この峠は西側の新治郡と東側の笠間や国府を結ぶ重要な交通路だったからである。『常陸風土記』に、「新治郡の郡衙(旧協和町付近)の東五十里の所に笠間村があり、そこへ通うには葦穂山を超えねばならない。古老がいうには、ずうっと昔のこと、葦穂山には、アブラオキメノミコト(油置売の命)という山姥が住んでいて、峠を越えようとする旅人を襲って殺し物品を奪った」との伝説が記されている。その後、山姥が住んでいたと言われる石室は、万葉集の中で何首も謳われている。次の情熱的な歌が有名である。
  「こちたけば をはつせ山の岩城にも 率て籠もらなむ な恋ひそ我妹」
意味は、皆から二人の仲を言い騒がれて、うるさいから小泊瀬山(葦穂山)の岩室に、あなたを連れて行って一緒にこもろうよ!私の愛しい人よ! というものである。

 多分、僕は、この「アブラオキメノミコト」というのは、大和朝廷によって滅ぼされた原住民すなわち「土蜘蛛」と言われている人たちの生き残こりではないかと思っている。だから、女山賊という悪者に仕立てたというような気がする。

 岩室なら、現在でも残っているはずである。誰か一緒に探しに行きませんか? 決して「率て籠もらなむ」なんて言いません(笑)。




2019年10月9日

久しぶりの『Cafe NOMAD』



 今日は秋晴れの天気。台風が来る前に、海を見ておこうと九十九里海岸に行った。まだ、あの辺では美味しいコーヒーを飲ませてくれる店を見つけていない。そこで、久しぶりに『Cafe NOMAD』をオープンすることにした。

 砂浜の流木に座って、コーヒー沸かし、一人で飲む。聞こえるのは、ゴ〜〜、ゴ〜〜という白波の打ち寄せる音だけ。数羽のカモメが近づいてきた。遠くの海上ではサーフィンの若者が3人、大波を捕まえて、うまく滑ったり、振り落とされたり。強い日差しで肌がヒリヒリするほど。海風が気持ち良い。

やはり、僕の『Cafe NOMAD』のコーヒーは、最高に美味い!




2019年10月2日

香取神宮の茶店

 流山の自宅に帰る途中、すごく遠回りして千葉県香取市の『香取神宮』に立ち寄った。別に神社に参拝するのが目的では無い。古い神社や寺の森が自然と醸し出す清々しい雰囲気が好きなのだ。この空気を味わいたくて訪れたのだ。


 拝殿を過ぎ裏手に回って、杉の巨木の間をしばらく進んでいくと、少し開けた場所に出た。そこで一軒の茶店を見つけた。こんな所にという驚きともに、そのいかにも茶屋らしい風情に感激した。メニューは、香取神宮名物の団子、ところてん、甘酒、ラーメンに焼きそば、店先には木刀に漬物の瓶詰め、おもちゃなど、茶店の定番が揃っている。もちろん、お客は僕一人だけ。


この茶屋は、120年前からここにあり、利根川から上陸して参拝に来た客を迎えた。現在では、すっかり木々が茂って視界を遮っているが、昔は店の座敷から利根川が見えたそうだ。老主人は、その頃の写真を指差して、「ほら、お客さんの座っているところが写っているでしょう」という。写真をよく見ると、うっすらと利根川の流れが写っている。店の前の石灯籠は関東大震災で倒壊したというから、この写真はそれ以前に写されたものだろう。家の中から生えている松の大木は、主人が子供の頃にはまだあったそうだ。
 

 座敷に座り、お茶を飲みながらお団子を食べていると、気分はすっかり明治時代の参拝客のよう。