水戸光圀公によって「初音」と名付けられた古内茶の原木があり、境内に茶畑が広がる。
2019年11月27日
2019年11月24日
黒羽の「おくのほそ道」を探して
雨が続いて、予定した山歩きは中止になった。でも、僕は、午後からは雨も止んで晴れると読んだので、予てから行ってみたかった那須の黒羽に車を走らせた。黒羽は、元禄2年(1689)4月(陽暦5月)に、松尾芭蕉と曽良が『おくのほそ道』の全行程でもっとも長い14日間滞在したところである。その間、黒羽の館代浄法寺図書(桃雪)と鹿子畑翠桃兄弟の家に泊まって、周辺の伝説や歴史の地を歩いている。僕も、そのうちのいくつかを廻ることにした。ただし、車で(笑)。
先ずは、芭蕉が泊まっていた『旧浄法寺邸』からスタートした。昼近かったが、雨はいっこうに止む気配が無い。見学者は僕一人であたりはシーンと静まり返っている。広大な庭園は霧雨に包まれていて、しっとりと雨に濡れたもみじの紅葉が鮮やかだ。細い杉木立の道をたどった先には、「山も庭もうごき入るや夏座敷」の句碑がひっそりと建っていた。
次は、すぐ近くの黒羽城の三の丸跡に建てられた『黒羽芭蕉の館』である。これは太田原市営の芭蕉をテーマとした小規模なミュージアムである。展示内容は、大したことなかったが、ここで一つ発見があった。蕉風俳諧の始めと言われる有名な「古池や、蛙とびこむ・・・・」の句が、彼の座禅の師家である仏頂和尚との問答の中で生まれたと書いてある書『芭蕉翁古池真伝(慶応四)』が展示されていたことである。これまでの俳諧は、金持ちの言葉遊びみたいなものだったが、それを変革して芸術にまで高めた芭蕉の背後には、やっぱり禅があったのだ。こうなっては、仏頂和尚の山居があった雲巌寺へ行かないわけにはいかない。芭蕉も行った。
黒羽から10キロ以上も山に入ったところに『雲巌寺』はある。この寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、開山は平安時代後期とされているが、一旦は荒廃して、その後、弘安6年(1283)に北条時宗を大旦那として、高峰顕日(仏国国師)が改めて開山した。禅宗の日本四大道場の一つである。と言うよりは、吉永小百合のJR東日本「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉編)」で見た方も多いだろう。仏頂和尚の山居は、正面右の庫裏の背後にあったと言われ
ているが、禅を修行する寺であるが故に、一般者は奥には入れない。
しかたがないので、山門の脇にある芭蕉と仏頂和尚の句碑を写して寺を後にした。
「縦横の五尺に足らぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば」 仏頂和尚
「木琢も庵はやぶらず夏木立」 芭蕉
やはり、芭蕉の句は現地に行って見なければわからない。寺は、鬱蒼とした巨木の杉、檜に囲まれていて、奥からキツツキの突く音が聞こえてくるかのようだった。
最後は、西行ゆかりの『遊行柳』である。それは、現地に行って見ると国道294号線脇の田んぼの中にポツンとあった。そこそこ大きなシダレ柳が2、3本と桜の木があるだけ。根元には苔むした西行の歌碑、芭蕉や蕪村の句碑が散らばっている。説明板が無ければ、その辺のどこにでもある田んぼ脇の空き地のようだ。しかし、ここは謡曲や芭蕉の句で有名なところである。きっと、柳の木そのものより、すぐ側には奥州街道(現294号線)が通っていて、10キロも先は白河の関だから、長い年月の間には様々な歴史の出来事が錯綜した場所なのだろう。周りの田んぼは、稲刈りがすっかり終わって、水たまりが冷たい空を映していた。
「田一枚植えてたち去る柳かな」 芭蕉
おまけ:吉永小百合さんのCM → 「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉篇)」ロケ地情報
先ずは、芭蕉が泊まっていた『旧浄法寺邸』からスタートした。昼近かったが、雨はいっこうに止む気配が無い。見学者は僕一人であたりはシーンと静まり返っている。広大な庭園は霧雨に包まれていて、しっとりと雨に濡れたもみじの紅葉が鮮やかだ。細い杉木立の道をたどった先には、「山も庭もうごき入るや夏座敷」の句碑がひっそりと建っていた。
次は、すぐ近くの黒羽城の三の丸跡に建てられた『黒羽芭蕉の館』である。これは太田原市営の芭蕉をテーマとした小規模なミュージアムである。展示内容は、大したことなかったが、ここで一つ発見があった。蕉風俳諧の始めと言われる有名な「古池や、蛙とびこむ・・・・」の句が、彼の座禅の師家である仏頂和尚との問答の中で生まれたと書いてある書『芭蕉翁古池真伝(慶応四)』が展示されていたことである。これまでの俳諧は、金持ちの言葉遊びみたいなものだったが、それを変革して芸術にまで高めた芭蕉の背後には、やっぱり禅があったのだ。こうなっては、仏頂和尚の山居があった雲巌寺へ行かないわけにはいかない。芭蕉も行った。
黒羽から10キロ以上も山に入ったところに『雲巌寺』はある。この寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、開山は平安時代後期とされているが、一旦は荒廃して、その後、弘安6年(1283)に北条時宗を大旦那として、高峰顕日(仏国国師)が改めて開山した。禅宗の日本四大道場の一つである。と言うよりは、吉永小百合のJR東日本「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉編)」で見た方も多いだろう。仏頂和尚の山居は、正面右の庫裏の背後にあったと言われ
ているが、禅を修行する寺であるが故に、一般者は奥には入れない。
しかたがないので、山門の脇にある芭蕉と仏頂和尚の句碑を写して寺を後にした。
「縦横の五尺に足らぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば」 仏頂和尚
「木琢も庵はやぶらず夏木立」 芭蕉
やはり、芭蕉の句は現地に行って見なければわからない。寺は、鬱蒼とした巨木の杉、檜に囲まれていて、奥からキツツキの突く音が聞こえてくるかのようだった。
最後は、西行ゆかりの『遊行柳』である。それは、現地に行って見ると国道294号線脇の田んぼの中にポツンとあった。そこそこ大きなシダレ柳が2、3本と桜の木があるだけ。根元には苔むした西行の歌碑、芭蕉や蕪村の句碑が散らばっている。説明板が無ければ、その辺のどこにでもある田んぼ脇の空き地のようだ。しかし、ここは謡曲や芭蕉の句で有名なところである。きっと、柳の木そのものより、すぐ側には奥州街道(現294号線)が通っていて、10キロも先は白河の関だから、長い年月の間には様々な歴史の出来事が錯綜した場所なのだろう。周りの田んぼは、稲刈りがすっかり終わって、水たまりが冷たい空を映していた。
「田一枚植えてたち去る柳かな」 芭蕉
おまけ:吉永小百合さんのCM → 「大人の休日倶楽部(黒羽の芭蕉篇)」ロケ地情報
2019年11月22日
オオタニワタリ
2019年11月17日
八郷盆地を眺めて
小春日和の青空の下、月末に予定しているハイキングの下見で、難台山から東に連なる尾根を歩いた。紅葉や黄葉はまだ始まったばかりである。今年は遅れている上に、先月の台風で木の葉が痛んで期待したほどではない。知っている人の少ない展望ポイントで、八郷盆地を見下ろした。この方角からの眺めは初めてだ。刈り入れの終わった田んぼと丘陵の先に、筑波山から加波山に連なる山並みが横たわっている。ところどころに集落が点在している。
途中で見かけたリンドウ |
2019年11月13日
近頃の水槽風景
2019年11月6日
センブリの花
昨日、つくば市の雑木林を歩いていてセンブリの花を見つけた。背丈の割には大きな花をたくさんつけていて美しい。花びらには、細い紫色の線が入っている。センブリは「千回振り出(煮出すこと)しても苦い」と言われている通り、根、茎、葉、花の全てが非常に苦い。日本三大民間薬の一つで、薬効は胃腸虚弱、下痢、腹痛、発毛!などに効くそうだ。確かに、少々の二日酔いの時など、センブリの猛烈な苦味でシャッキとなりそうだ。僕は、この草の苦味を知らない人に葉を噛ませて顔を歪ませるのを見るのが密かな楽しみとなっている(笑)。
センブリは、本来、日当たりの良い場所を好むが、現在では草原・松林の減少や雑木林の荒廃などで、そのような場所が全国的に減っている。それに伴ってセンブリも急激に減少して、府県によっては絶滅危惧種に指定されている。
昔は、高価で取引されていて、長野県出身の友人などは、皆で、校舎の裏山に採集しに行き、校庭で乾燥して業者に売り、そのお金で学校の備品を揃えたそうだ。センブリの採集・販売は、田舎の子供や老人のよい小遣い稼ぎにもなっていた。
現在では、なかなかお目にかかれないが、もし見つけたら葉を摘み取って、ぜひ強く噛んでみて下さい。気分爽快、胃腸軽快になることでしょう(笑)。
2019年11月1日
江戸崎の寺へ
先日、雨の中を出かけたが、道がわからなくなってしまい行き着けなかった。今日は、流山の自宅からの帰り、再度挑戦した。行こうとしたのは、稲敷市江戸崎の「大念寺」と「瑞祥院」である。江戸崎といえば、「カボチャ」を思い浮かべる人が多かもしれないが、ここには中世の頃に「津」が置かれ、霞ヶ浦南岸の重要な漁業や軍事的拠点でとして集落が発達した。また近世になると水運、漁業の拠点として大いに栄えた。嘉慶元年(1387)には、美濃の土岐原氏が江戸崎城を築き、海夫を使って海賊を取り締まったり、その後200年間に渡って茨城県南一帯を支配した。天正18年(1590)に佐竹氏などに滅ぼされ、次に入った芦名盛重によって瑞風が会津から招かれて不動院の住職となった。この瑞風は、後に徳川家の重要なブレーンとなり上野寛永寺を開いた天海大僧正その人である。ここに江戸崎の寺院と徳川家との結びつきができる。 それにしても「海夫」とはどんな人たちなのだろう?興味あるな〜。
次は、そのすぐ東にある瑞祥院である。この寺は文和元年(1352)に、足利尊氏の開基によって創建されたとする臨済宗の寺である。本堂そのものは、樹木も少なく禅宗の古刹としての森厳さに欠ける。しかし、暗い竹林の中の細い道を登って行って裏山の頂に着くと、突然、多くの石像群が現れる。豊島和七という人が約20年をかけて文化元年(1804)に完成した「五百羅漢」である。一つひとつ顔の表情や仕草が違っている。笑っている坊主や怒っている坊主、困った顔をしているのや、悟ったかのようにすましたのもいる。もともと、羅漢とは「阿羅漢」のことで、「仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと」だが、どう見ても、その辺の街角でお茶を飲みながら世間話に興じている「おじいさん、おばあさん」のようなのが多い。そのせいか、一人一人に挨拶して回っているうちに、だんだん親しみが湧いて来て、帰る時に思わず「また、来るからね!」と言葉が出てしまった(笑)。振り向くと、石像群の先には小野川の河口と江戸崎の街並みが広がっていた。
最初訪れた浄土宗の大念寺は、天正18年に源誉慶厳によって開山された由緒ある寺で、坊さんの大学である「関東十八壇林」の一つである。山門を入ってすぐ右手に徳川家康のお手植えの銀杏(逆さ銀杏)がある。寺のいたるところに三つ葉葵の御紋が描かれている。しかし、現在では、どことなく荒れていて、そんな由緒ある寺とは到底思えない。僕が車を止めた駐車場のなどは、昔は多くの僧坊や伽藍が立ち並んでいたのだろうに。廃仏毀釈の嵐が、特に激しく吹き荒れた寺かもしれない。
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