2021年7月28日

浮島

  かすみがうら市の歩崎公園から見ると、霞ヶ浦の南方に島影が見える。稲敷市の「浮島」である。そんな事は無いと言われるかもしれないが、浮島が陸続きになったのは、そう昔のことではない。部分的に干拓が進められて、最近では昭和17年に始まり昭和31年に完成した「本新島干拓」がある。写真の「夢の浮橋」が掛かる小川は干拓時の水抜きの水路なのだろう。


 奈良時代(8世紀初)の 『常陸国風土記』の信太郡の条には、「乗浜の里の東に、浮嶋の村あり。四面絶海にして、山と野交錯れり。戸は一十五烟、田は七八町余なり。居める百姓、塩を火きて業と為す。」とある。当時の島の住民は、海藻を使って塩水を濃縮して、それを焼いて塩を得ていたようだ。当時の霞ヶ浦は海水だった。もっとも、霞ヶ浦の製塩の歴史はもっと古く、沿岸の遺跡から縄文時代まで遡ることがわかっている。風土記では、この文章に続いて、「島には、社が9つあり、住民は言行を謹んでいた」とある。こんな小さな島に、これほど多くの社があるということは、島全体が神聖な場所、祭祀を行うところだったかもしれないと言っている研究者もいる。福岡県の沖ノ島、広島県の厳島のように。

この左の丘が、景行天皇行在所趾があったと言われる山

 カントリーライン206号線を東に走っていたら、「景行天皇行在所跡(浮島宮伝承地)」という矢印があった。道路から、少し入った小山の麓に案内板があった。訪れる人は、ほとんどいないようだ。辺りは夏草が生い茂り、上り階段には落葉が積もっていた。ここも『常陸国風土記』に出てくる。景行天皇は、皇子の日本武尊の追慕のために、皇子の遠征の跡を辿って巡幸した。その途中、浮島に立ち寄り、仮宮(かりのみや)を設けて30日間滞在したという。ここが、その場所だと伝えられている。他に、『風土記』では水が無かったので卜部に占わせて掘ったところ水が湧いたということや、賀久賀鳥(かくがどり)という美声の鳥を捕まえたことが記されている。「景行天皇」とか「日本武尊」などと言ったら、もう、神話と現実の入り混じった霞のかかった世界の出来事だ。こういう話は、そっと雑草に埋もれさせたままにしておいたほうがいい。



 現在、稲田やハス田になっているところは、昔は海であり海水で満たされていた。その水面のところどころに小島が浮かんでいる。島の岸近くでは、浅黒く日焼けした半裸の住民が、魚や貝を採って暮らしている。あちこちに立ち上る煙は塩を焼いているのだろうか。

 夏の日差しが刺すように照りつける。コンビニの駐車場であたりを眺めていたら、こんな白日夢にとらわれた。


正面木立の後ろに「景行天皇行在所遺址」の石碑が建っている。



 

 


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