2010年7月30日

土地との出会い

 流山の自宅に帰ってパソコンで遊んでいたら、古いフォルダーの中から数年前に書いた文章が見つかった。現在、山小屋がある土地と出会ったときのことなので、このブログにアップしておこうと思う。


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今になっては現実か想像なのか区別が付かないが、遠い昔、高校の図書室で、茨城県中部に「かくれ里」伝説があったという記事を読んだような気がする。

 何でも中世の戦乱の世に、心身ともに傷つき疲れ果てた武士が、小さな盆地の山里に迷い込んだ。そこは周囲の山々から集まった水が、田畑を潤して豊かな恵みをもたらし、季節ともなれば、ウメ、サクラ、モモの花々で谷が埋まった。盆地の真ん中にある寺院を囲むようにして、人々は平和で豊かな生活を営んでいた。武士は、この美しい里がすっかり気に入って、この地に留まり、素朴で心豊かな人々に囲まれて暮らしている間に、次第に身も心も癒されていった。しかし、時を経て回復するにつれて、国に残してきた妻子のことが気がかりになってきた。ついに、ある日、いつまでも住み続けたいという気持ちを振り切って、この地を後にした。その後、故郷に戻って家族と再会し、長い間、安穏に過ごしていたが、いつになっても美しい山里のことが忘れられず、再び訪れようと決心した。かすかな記憶をたよりに山々を彷徨ったが、どうしても里の在処が判らず、二度と足を踏み入れることが出来なかったという話である。

 私は「かくれ里」伝説を信じている訳ではないが、このような美しくて儚い伝説が誕生するような土地が必ずあったはずだと思い、数年前から、歴史と文化の豊かな小盆地を求めて、笠間、岩間、志筑、そして八郷などを歩き回った。こうした山里放浪の過程で出会ったのが、八郷の地である。筑波山は裾野を東の霞が浦方面と北の鶏足山地方面にのばしている。その東方向に伸びた山裾に挟まれた谷間の一つに椿谷がある。一目見て、ここがすっかり気に入った私は、昨年、地元の人に懇願して約2反歩の土地を分けてもらった。ここは、10年ほど前まで牧草地であったところで、樹木は切り払われておりススキ、ササ、葛、キクイモ、セイタカアワダチソウ、カナムグラ等の繁茂する原野になっていた。南正面は、穏やかな上り斜面が扇状に広がり、突端の境はちょっとした崖で終わっている。北側は、急な斜面の下に田畑と人家がまばらに点在するのどかな山里の風景が望める。東側はクヌギ、イヌシデ、ヤマザクラ、ウワミズザクラなどの雑木で縁取られ、西側にはヒノキ、スギの薄暗い針葉樹林が迫っている。

 それ以来、私は、休日の度にこの地に通い、草を刈り、雑木を植え、小屋を建て、土地の人々とも親しく交流してきた。そうこうするうちに、次第に、この谷間の人々の暮らしぶりや奥深く秘めている古い歴史、そして周囲の豊かな自然が少しずつ見えてきた。


 春の黄昏時、小屋の窓枠に頬杖をついて、向かいの山肌にヤマザクラの花がほんのりと白く浮かんでいるのをぼんやり眺めているとき、満月の晩に、地面の土に混じった雲母の破片がキラリと光るのを見つけたときなど、「もしかしたら、ここが、私が探していたかくれ里なかもしれない」と、ふっと思うことがある。


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