2021年5月7日

岩瀬の櫻川

国道50号線の羽黒駅から益子の向かうと間もなくして小さな橋(桜橋)を渡る。注意していないと、気がつかないほどのありふれた田舎のどこにでもあるような小川だ。目印は、橋のたもとに『桜川薪能』の記念碑が建っているだけ。そう、この川は世阿弥元清が茨城県でただ一つ残した謡曲『桜川』の舞台である。世阿弥元清は、足利家の庇護を受けて猿楽を芸術にまで深化させて、幽玄美を漂わせる「夢幻能」を大成させた。『風姿花伝』の芸論でも有名である。
 その謡曲『桜川』のあらすじを最後にコピペしておくが、桜の持つ幻想的な美しさと独特の寂しさを見事に物語にしている。我が子を失って狂った母が、この桜川にたどり着き「桜子、やーい」と言いながら、川に入って一面に流れる桜の花びらを掬いながら踊る姿は印象的である。現在の桜川からは、とても想像できないが、当時はもっと川幅も広く水量も豊かで、両岸には桜の大木が茂っていたのだろうか?もっとも、世阿弥は川の実物を見ていないで創作しているはずだけど。
 この辺、磯部一帯は、昔から「西の吉野、東の桜川」と言われたほど山桜の名勝だった。いまでも、「磯部桜川公園」や「高峯のヤマザクラ」は有名だ。春になると自然交配した色とりどりのヤマザクラが周辺の山肌を飾る。歴史的にも興味深い地域である。

謡曲『桜川』のあらすじ ーーーーー
 「日向国(主に今の宮崎県)、桜の馬場の西に、母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。その家の子、桜子(さくらご)は、母の労苦に心を痛め、みずから人商人(ひとあきんど)に身を売ります。人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、悲しみに心を乱し、泣きながら家を飛び出して、桜子を尋ねる旅に出ました。それから三年。桜子は、遠く常陸国(主に今の茨城県)の磯辺寺の住職に弟子入りしていました。春の花盛り、住職は桜子らとともに、近隣の花の名所、その名も桜川に花見に出かけます。折しも桜川のほとりには、長い旅を経た桜子の母がたどり着いていました。狂女となった母は、川面に散る桜の花びらを網で掬い、狂う有様を見せていたのです。住職がわけを聞くと、母は別れた子、桜子に縁のある花を粗末に出来ないと語ります。そして落花に誘われるように、桜子への想いを募らせて狂乱の極みとなります。やがて母は住職が連れてきた子と対面します。その子が桜子であるとわかり、母は正気に戻って嬉し涙を流し、親子は連れ立って帰ります。後に母も出家して、仏の恵みを得たことから、親子の道は本当に有難いという教訓が語られます。」



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