2019年12月11日

行方市の夜刀神社

 玉造から北浦に向かって走っていると、途中に「夜刀神社(ヤトジンジャ)」の案内標識があってをいつも気になっていた。「夜刀(ヤト)」といえば、常陸風土記に伝説が載っている。なんでも角を生やした蛇の姿をしている奇怪な神である。今日は、思い切って見に行くことにした。
 丘陵に刻まれた暗い谷を下って行くと、池の中に鳥居が建っていた。鳥居の奥の崖下に、湧水がこんこんと湧いている。脇には「椎井池」の石柱が立っていた。行方市教育委員会の説明によると、6世紀初の継体天皇の時代、筈括氏麻多智(ヤハズノウヂマタチ)という人が、谷の葦原を開墾して田んぼにしようとしたところ、「夜刀神」が群れをなしてやってきて邪魔をした。そこで、麻多智は、山の入り口に神と人間が住む境界を作ったという。ここがその境界の地点である。その後孝徳天皇の時代(7世紀中)になって、初代行方郡の地頭である壬生連麿(ミブノムラジマロ)が、池を占領して堤防を築いたときにも、また「夜刀神」が現れて木に登って立ち去らなかったので、「目に見える一切のものは、全て打ち殺せ」の命令を発したそうである。そうしたら、皆逃げ去ったと。
 説明板によると「蛇は原住民の具象化であり、「夜刀」とは「谷人」であり谷津周辺の湧水近くに居住する人達と考えられる」とあった。ここで解った。「夜刀(ヤト)」とは「谷津(ヤツ)」であり、台地に切れ込んだ谷間の湿地のことなのである。そして、Wikipediaでは、「夜刀」を「開拓以前の野生状態の自然を可視化したもの、自然の持つ霊威を形象化したもの」となっているが、僕にはそんな綺麗事では無いように思える。背後には、もっと血生臭い歴史が秘められていて、稲作の耕作地を確保するための大和朝廷側の侵略や原住民との水利権をめぐる壮絶な争いがあったように思えてならない。

 千五百年も昔、この地で何があったのだろうか?この池の泉は、その頃からずう〜っと現在まで湧き続けているのだろうか?





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