2020年2月5日
月待塔
よく、田舎道を散歩していて、路傍で「十三夜供養」とか「二十三夜供養」とか彫られた古びた板碑を見かける。上の写真も八郷の細谷地区で写したものだ。中央の大きな板碑には安政四年とあるから、今から約160年前に建てられたものだとわかる。その頃は、ペリーの黒船が来航したり大地震があったりして、世の中が騒然としていたことだろう。
ところで、この「十三夜」とか「二十三夜」とは、特定の月齢(旧暦)の夜に、「講中」と呼ばれる集落の仲間が集まり、共に食事をして、お経を読んだり念仏を唱えて、月を拝み、安産を祈願したり悪霊を追い払う信仰行事である。いわゆる「月待講」である。板碑は、この「月待講」による供養の記念として造立したものである。
この習慣は、現在でも「十五夜」さまとして残っている。特に東日本に多い「十三夜講」は如意輪観音を本尊としており、女性だけの講である。「子安講」とも言われる通り、主に安産を祈願した。当時はお産に際して母子が亡くなることが普通にあった。当時の女性にとって、無事に子供を産んで元気に育てることは切実な願いだったのだろう。お産に関係しているせいか、比較的若い女性で構成されたとも言われる。十三夜は、二十三夜に比べて月の出るのも早い。さっさと拝んで家に帰れということか(笑)。
「二十三夜講」は勢至菩薩を本尊として、全国的に分布している。ここでは、家庭を牛耳っている中年主婦やおばあちゃんたちが主体である。大口を開けて新しく嫁いできた嫁の噂や村人の悪口に花を咲かせたことだろう。そうして、日頃の厳しい暮らしの憂さを晴らしたのである。しかし、赤坂憲雄か宮本常一だか忘れたが、この集まりは村落共同体を円滑に運営する上で重要な役割を果たしていたという。お母ちゃんたちの話題は、噂や悪口ばかりではなく、問題行動をする主人の家の奥さんに是制すようにそれとなく勧告したり、嫁の教育について話し合ったそうだ。いわば、村の影の内閣として機能したそうである。今も昔も、女性の集まりは怖い(笑)。
確かに撮影した板碑は、四方が開けた丘の上に立っていた。月夜の晩に、村の女性たちが、この塔を囲んで供物を捧げ念仏を唱えて、月の出るのを待っているのを想像すると、たまらなく美しく幻想的である。
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