2019年11月1日

江戸崎の寺へ

 先日、雨の中を出かけたが、道がわからなくなってしまい行き着けなかった。今日は、流山の自宅からの帰り、再度挑戦した。行こうとしたのは、稲敷市江戸崎の「大念寺」と「瑞祥院」である。江戸崎といえば、「カボチャ」を思い浮かべる人が多かもしれないが、ここには中世の頃に「津」が置かれ、霞ヶ浦南岸の重要な漁業や軍事的拠点でとして集落が発達した。また近世になると水運、漁業の拠点として大いに栄えた。嘉慶元年(1387)には、美濃の土岐原氏が江戸崎城を築き、海夫を使って海賊を取り締まったり、その後200年間に渡って茨城県南一帯を支配した。天正18年(1590)に佐竹氏などに滅ぼされ、次に入った芦名盛重によって瑞風が会津から招かれて不動院の住職となった。この瑞風は、後に徳川家の重要なブレーンとなり上野寛永寺を開いた天海大僧正その人である。ここに江戸崎の寺院と徳川家との結びつきができる。 それにしても「海夫」とはどんな人たちなのだろう?興味あるな〜。

 
 最初訪れた浄土宗の大念寺は、天正18年に源誉慶厳によって開山された由緒ある寺で、坊さんの大学である「関東十八壇林」の一つである。山門を入ってすぐ右手に徳川家康のお手植えの銀杏(逆さ銀杏)がある。寺のいたるところに三つ葉葵の御紋が描かれている。しかし、現在では、どことなく荒れていて、そんな由緒ある寺とは到底思えない。僕が車を止めた駐車場のなどは、昔は多くの僧坊や伽藍が立ち並んでいたのだろうに。廃仏毀釈の嵐が、特に激しく吹き荒れた寺かもしれない。

 次は、そのすぐ東にある瑞祥院である。この寺は文和元年(1352)に、足利尊氏の開基によって創建されたとする臨済宗の寺である。本堂そのものは、樹木も少なく禅宗の古刹としての森厳さに欠ける。しかし、暗い竹林の中の細い道を登って行って裏山の頂に着くと、突然、多くの石像群が現れる。豊島和七という人が約20年をかけて文化元年(1804)に完成した「五百羅漢」である。一つひとつ顔の表情や仕草が違っている。笑っている坊主や怒っている坊主、困った顔をしているのや、悟ったかのようにすましたのもいる。もともと、羅漢とは「阿羅漢」のことで、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと」だが、どう見ても、その辺の街角でお茶を飲みながら世間話に興じている「おじいさん、おばあさん」のようなのが多い。そのせいか、一人一人に挨拶して回っているうちに、だんだん親しみが湧いて来て、帰る時に思わず「また、来るからね!」と言葉が出てしまった(笑)。振り向くと、石像群の先には小野川の河口と江戸崎の街並みが広がっていた。




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