2020年1月29日

観音寺の両界曼荼羅



 昨夜の激しい雨が八郷の空気をすっかり洗い清めてくれた。周囲の山々がくっきり見える。強い透明な日差しも射し始めた。こんな日は、小屋にじっと籠っているのは惜しい。こんな日に出かけると、何らかの発見や感動があるものだ。やはり、この予感は的中した。

 少しでも高いところから山々を眺めようとして、八郷の林地区にある村上山 金剛院 観音寺へ行った。この寺は、真言宗智山派の密教寺院で、創建は南北朝時代の建武二年(1335)とされている。寺自体が中世の山城跡に建てられているので、眺めがすこぶる良い。境内に立つと筑波山を始めとする八郷盆地をぐるりと囲む山並みが見渡せる。

 ちょうど、住職がおられて、お茶をいただきながら様々な話題で盛り上がった。そのうち、本堂に招かれたのでついて行った。初めてでは無いが、この本堂は今年の後半から建て替えが始まるそうで、今のうちに、あの外陣の壁を飾っている見事な彫り物の欄間をもう一度見ておこうと思ったからである。しばらくして、更に、住職が、この寺に昔(600年以前か)から伝わる曼荼羅を拝観させてくれるという。もう感激の極みである。本物の曼荼羅を拝見できる機会など、そう滅多にあるものでは無い。それも真近で。第一、曼荼羅は真言宗にとって、もっとも重要な祈祷・瞑想のツールであり、長い間、一般の俗人などの目に触れるものでは無かったのだ。

 柔らかい光が、本堂の畳の上に広げられた「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」を照らしている。中心の大日如来を取り巻いて、様々な仏様がそれぞれ思い思いの姿や表情で描かれている。それでいて、全体では調和している。顔を近づけて見ると、その一人一人を描いている線の繊細さ、色使いの鮮やかさには驚くばかりだ。「胎蔵界曼荼羅」など、少し離れると、全体に淡いブルーが基調になっているようで、あたかも空全体、宇宙全体に仏様が満ちているように見える。しかも、よく見ると、その仏様の中には、たくさんの女神もいれば、明らかに異教徒(外道)もいれば蛮人も鬼もいる。こうした、すべての生きものを取り込んだ世界観こそ曼荼羅の素晴らしさであり、現代的な意義があると考える。

 この両界曼荼羅は、通常では公開しない。住職に聞いたら、お盆の時に開示するかもと言っていた。その時まで、楽しみに待っていて欲しい。






 

2020年1月21日

益子の西明寺にて



 今日は、生きている人間より、出会った仏像の方が数が多いかったかもしれない。まずは、西明寺の本堂の向かう石段の両脇の石仏、そして厨子内の十一面観音菩薩、聖観音立像、馬頭観音立像、如意輪観音坐像、准胝観音立像、延命観音立像、勢至菩薩立像、毘沙門天立像などの仏像群である。さらに閻魔大王と両脇侍たちである。帰りは、茂木から城里を回ったが、その途中の山里では多くの野仏が迎えてくれた。


 この西明寺は、真言宗豊山派の寺院で、歴史は天平年間(729-749)で行基が開山したと伝えてられているから極めて古い。参道や本堂の周辺には、椎の大木が茂り、リンボクやヤマモモなどの暖地の樹木も生育する。コウヤマキやクスノキの巨木もある。これらの巨木群が、いかにも1300年の歴史を持つ古刹の雰囲気をつくっている。重要文化財3点、県指定有形文化財7点、県指定天然記念物2点と宝庫のようなところだ。坂東三十三箇所の第20番目札所でもある。

 僕にとって、この寺は特別なところである。最初に訪れたのは、今から五十年近く昔になる。妻と二人で益子駅から歩いて、街並みを抜け山裾を巡って、やっと辿り着いた思い出がある。かすかに記憶に残るその時の光景は、今でもあまり変わっていないように思える。その後、何度か訪れたが、印象深いのは、三年前の早春、偶然に前住職の田中雅博さんが亡くなられた朝に居合わせたことである。張りつめた閑寂の中に安らかさがあたりを包んでいたのを今でもはっきり覚えている。田中雅博住職は、国立がんセンターの研究所室長をされてから、仏教を学んで西明寺を継いだ。自分が末期ガンであることを知りながら、平然と病気などで苦しんでいる人を励ましている姿には深く感動した。彼の著書からも、多くを学ばさせてもらった。




 今日も偶然に、住職を引き継いだ奥様の田中貞雅さんとお会いすることができた。前住職のこと、これから寺を引き継ぐお嬢さんのこと、寺の樹木のことなどを話した。これからも、この寺の雰囲気を大切にして未来に引き継ぐという。安堵の気持ちとともに、また一層、この寺との縁が深くなったのを感じた。

 帰り、知らない山里の道を走っていたら、午後の光が、何体もの路傍の石仏を照らしていた。車を止めて写させてもらった。はるか昔の人々の願いが、硬くて冷たい石を通して伝わってくる。


(西明寺の境内にあるお休み所『独鈷処』の蕎麦は、安くて美味しいことを追記しておく)






2020年1月15日

ならせ餅

 

 今日は小正月。茨城県の各地では、五穀豊穣と無病息災を願って、「ならせ餅」を作って玄関や竃(台所)に飾る。真壁の五所駒瀧神社の社務所入り口にも飾ってあった。昨夜の雨で苔や木々が濡れて緑が鮮やかだ。「ならせ餅」の赤と白色が映える。

 実は、この「ならせ餅」という呼び名は、茨城県の方言である。しかし、木の枝などにお餅を飾る風習は、全国各地にあって呼び名も異なる。長野県などの養蚕の盛んなところでは、餅の形をひょうたん型にして繭玉を模している。呼び方も「餅花」や「まゆ玉」など様々である。使う木の種類も様々で、茨城ではナラやクヌギの木が多いが、地方によってはツバキやシラカシ、ツゲなどの常緑樹やヌルデ、ミズキ、モミジなどを使うところもある。長野などは、シダレ柳に小さな白い餅を付けて、豊かに実った稲穂が自重で垂れ下がっているのを表現している。元々この風習は、農作物の豊作を願う予祝行事であったが、しだいに都市が発達して貨幣経済が盛んになると、大阪の「えべっさん」のように小判や大黒様のお飾りを付けるようになった。

 僕はこの伝統行事が大好きだ。先日もつくば市の山麓自然学校で、参加した家族たちとお餅をついて「ならせ餅」を作った。大好評で子供も大人も夢中になった。「花咲爺さん」のように枯れ木に美しい花を咲かせる楽しさに加えて、後日、「あられ」にして食べる楽しみもある。こうした行事は、これからもずっと続いて欲しい。







2020年1月1日

初詣、下野国大神神社と「室の八嶋」


 2020年の元日。毎年恒例となっている両実家への挨拶回りをしてきた。その宇都宮から館林に向かう途中にある下野国「大神神社(おおみわじんじゃ)」で初詣した。この大神神社は下野国総社で歴史は極めて古い。なにしろ崇神天皇の時代(3世紀後半?)、その皇子の豊城入彦命が、東国平定の戦勝と人民の平安の為に奈良県の大三輪神社(大神神社)を勧請したのが創建だという。近くに下野国庁跡もあることから、石岡の総社と同じように任命された国司が国内の神社を巡拝するのをここ一箇所で済むようにした(=総社)のだろう。あの「道鏡」も下野国薬師寺別当に左遷されて下向された際に、一時ここに居を構えていたらしい。



 そんな事より、この神社が有名なのは、境内に「室の八嶋」と言われる場所があることだ。「室の八嶋」は「けぶり(煙)」、特に「恋に身を燃やしたけぶり」と結びついて、古代から、下野国の歌枕として有名である。元々は宮中の竈の煙を指した言葉らしいが、何ゆえに遠く離れたこの場所を指すのかわからない。昨日の朝霧のように、あたりの清水から湧き上がる水蒸気を「けぶり」と見立てたか。それを赴任した国府の役人が美化して都に伝えたか?

 元禄2年(1689)に、松尾芭蕉も、ここが気なったらしく『奥の細道』では、最初の歌枕の地として訪れている。芭蕉は、ここで「糸遊に結びつきたる煙哉」と詠んでいる。しかし、情景の描写は無く、同伴者の曽良の解説を紹介しているだけである。もしかすると、現地を見て少々ガッカリしたのかも知れない。僕も、現地はスギ林の中の池に小社の祀ってある小島が連なっているだけで、眺めても「ア〜、こんなものか」という程度で特段感動は無かった。

 大神神社にしても室の八嶋にしてもこれほどの歴史があるのに、忘れられた素朴な田舎の神社という感じであり、僕にはこれはこれで好ましく思えた。