2021年12月31日

ブログを引っ越しました

 長い間、このブログを見ていただき有難うございました。

この度、新しくホームページを開設しましたので、このブログをそちらに引っ越します。

新しいホームページでは、ブログの他に、美しい写真の掲載や記事の保存や閲覧などの機能が豊富にあるため、これまで以上に充実した内容が実現できるものと思います。まだ、未完成な点も多数ありますが、これから徐々に改善して行きますので、これまでと同様によろしくお願いいたします。

新しいホームページのURLは以下の通りです。

    https://ramunos.sakura.ne.jp/w/


2021年11月19日

久しぶりの樹木調査

 久しぶりに樹木を見て回った。数年前に実施したつくば市の巨樹調査を市民向けの資料としてまとめるという。

 つくば市というと、近代的な街並みをイメージする人が多いと思うが、どうしてどうして、一歩郊外に出れば、広い田園や野山が広がっている。その中に、大木に囲まれた古い屋敷、歴史ありそうな寺院や神社が隠れている。このようなところを中心に胸高周囲長が3mを超える巨木が700本以上もある。この中から、誰でも訪れることができる約100本を選んでマップと解説冊子を作るというのだ。
 幾百年もの間、その土地に根付いてその土地の出来事をじっと眺めてきた巨木。それ故に、誰でも、木の下に立ち、幹に触れ、上を見上げると、圧倒的なパワーを感じて不思議な感動がこみ上げてくる。畏敬の気持ちすら持つかもしれない。





 今日訪れた谷田部の神社では、両側から草木が迫った薄暗い参道を歩いていたら、道脇の石仏に人形をした大根が供えてあるのを見つけた。酒を入れる竹筒もある(写真)。
「サイエンスの街」と言われるつくばにも、まだまだ、このような素朴な信仰が生きているのを見つけて、なんだかホッとした気持ちになった。





 

 


2021年10月31日

笠間の文化財公開に行った


正面が千手観音像の収蔵庫


 朝から笠間の文化財公開に行った。昼食抜きで回ったのに、6箇所のうち5箇所しか回れなかった。でも、4箇所以上回ったので記念の仏像写真集をもらってきた。益子の文化財も一緒になっている。これは素晴らしいもので、仏像は撮影禁止なので有難い。
 6箇所のうち、岩谷寺、楞厳寺、弥勒協会の仏像たちはお馴染みだけど、他の3箇所は毎回異なる。今回は真浄寺、三所神社、光照寺だった。次は2年後だ!


 楞厳寺の千手観音立像を見ていたら、隣に来た3、4歳の女の子が、「おじさん、これ人なの?」と聞いてきた。これに答えるのは難しい。「人の格好をした神様だよ」と答えて、早々に退散した。「神様って?」って聞かれたら、ますます難しくなる(笑)。
 次は、グリーンのジャンバーを着た案内のおじさんを捕まえた。どうやら、「どうして、あんなに沢山の手があるの?」と聞いているらしい。小学生のお兄ちゃんは、「千本も手が無かったよ、どうして?」と聞いている。案内のおじさんが、何と答えたかは知らないが、笠間の子供たちは恵まれている。散歩や遊びの場所に、国指定の重要文化財の仏像があって、見守ってもらえるのだから。

2021年9月29日

龍谷院とムササビ

 城里の『瑞雲山 龍谷院』に行った。ここは曹洞宗の寺であり、長禄三年(1459)に大山城主の佐竹因幡守義成公によって開基された。「花の寺」としても名高く、那珂川に面した山裾の閑静なところにあって、季節になると様々な花が楽しめる。また、僕が坐禅でお世話になっている八郷根小屋の『霊石山 泰寧寺』は、この寺の末寺でもあるので、是非とも訪れてみたかったのだ。

よく見ると、不審な侵入者を怒っている(笑)

 門柱を過ぎたら、突然、以前ここを訪れたことがあるのを思い出した。数年前に、自然博物館でムササビの生息分布調査をした時に来たことがあった。その時、駐車場の隣の杉林で、ムササビの自称(笑)傑作写真を写したのもここだった。嬉しいことに杉林は当時のまま残っていた。「まだ、いるだろうか」と探したが、もうどの杉の木だったかサッパリ判らない。


 龍谷院は佐竹一族の寺である。本堂の柱に赤く五本骨扇に月丸」の家紋が描かれている。八郷の泰寧寺の本堂扉にも同じ紋が描かれている。泰寧寺も天正19年(1591)に、同じ佐竹一族である石塚城主の石塚義辰が片野城主になった時に、城里(旧常北町)の石塚から遷したものだからだ。

 お寺とムササビの話が、ゴッチャ混ぜになってしまった。いかにも僕らしい(笑)



2021年9月27日

龍角寺周辺を歩く

  

 流山の自宅の戻るのに、今回はさらに足を伸ばして千葉県栄町の龍角寺とその周辺の古墳群を訪れた。雑木林の道を進むと、突然、前方に巨大な古墳が現れた。国指定史跡の「岩屋古墳(竜角寺古墳群105号)である。墳丘は3段で、東西108メートル、南北97メートル、高さ13.2メートルの方墳である。造築年代は古墳時代末期の7世紀前半から7世紀中期ごろと考えられている。大きいはずだ、この時期の方墳としては全国第一位の規模である。石室は中腹の南面に2基ある。その材料はこの地方の貝の化石を含んだ木下層の凝灰質砂岩であるが、興味深いのは、石室の一部に筑波山周辺の変成岩が使われていることだ。わざわざ、何らかの方法でここまで運んだのだ。


 次は、古墳群の名前になっている「竜角寺」を目指した。それが、この辺特有の凹凸のある地形の間を縫うようにしてナビに従って田舎道を走ってもたどり着かない。二度も地元の人に聞いたがわからない。そのはずである。お寺は集落の一角に位置していて、ただ、巨木が生えている広場に古い石塔群や小高い盛り土があるだけだった。「龍角寺」といえば、関東地方でも最も古い寺の一つで、国指定重要文化財の「薬師如来坐像」があったりして有名だから、大きな伽藍でもあるのかと思っていたのが間違いだったのだ。しかし、この龍角寺は確かに古い。和銅2年(709年)に、竜女化来して、一夜のうちに諸堂(金堂、塔)を建立し薬師如来像を祀ったと伝えられている。発掘調査でも当時の伽藍の遺構や軒丸瓦が発掘されている。
 写真の小高くなったところが金堂の跡で、中央に穴の開いた大きな石が塔の心礎の趾である。この石は「不増不減の石」と言われ、中央の穴に溜まった水はどんな日照りの時でも枯れることはないと言われている。僕が見た時にもしっかりと水が溜まって曇り空を映していた。



 この二つ、古墳群と龍角寺は深く関係していると思われる。いずれも造られた年代が、そう遠くないのである。同じ一族のものだろう。
南は印旛沼、北は、現在は利根川の低地だが、当時は霞ヶ浦に続く海である。こうした水に囲まれた丘陵地帯を中心に一大勢力を誇った勢力が存在したのに違いない。「水」と言えば「龍」である。





2021年9月20日

秋の一日、NOMAD Cafe

よく晴れた秋の日。こんな日は NOMAD Cafe を開くのに相応しい。アルコールバーナーでお湯を沸かし、自分で焙煎したコーヒー豆をドリップした。不思議だ!小屋で飲んだ時は、それほどとは思わなかった豆が、実に美味い!苦味さえも爽やかに感じる。あいにく、通り掛かる人がいなかったので誰にもご馳走してやれなかった(笑)。

 実は、この前に涸沼に行ったのだが、昼食をとるタイミングを逃してしまった。「松川直売所」に何か有るかと入ったが何も無い。しかし、アールスメロンを安売りしていた。一個200円から高くても600円。そこで、昼食の代わりにと3個買ってその場で食べた。お腹がいっぱいになって3個目は持ち帰ることにした。人生で、これほどメロンを一度に食べたのは初めてだ(笑)。






2021年9月17日

『えんじゅトークサロン』

 私は、石岡市旧八郷町の山間にある古民家で、週に1日だけコーヒーを淹れている。八郷地区には個性的な暮らしをしている人や豊かなキャリアを持っている方が多く住んでいる。その方々がコーヒーを飲みに来ては、とても興味深い話をしてくれるのだが、私たちだけが聞くのではモッタイナイと思うようになった。そこで、2年前に、多くの人と一緒に聞いたり、意見を交換する場として『えんじゅトークサロン』を開き、毎月第四土曜日の午後に開催している。今年度後期の日程、講師及びテーマは写真の通りなので、興味のある方は、是非参加していただきたい。





2021年9月14日

うどん屋『馬荷亭よし』の廃業

先月の始め、真壁のうどん屋『馬荷亭 よし』に行ったが閉まっていて、9月になったら開店すると言われたので楽しみにしていた。今日、行ったら、何と!「廃業」の張り紙が貼ってあった。ガッカリしたが、よく見たら、下に小さな文字で「生麺は販売します」と書いてある。そこで、声を掛けたら主人が出てきて、「客が増えて忙しくなったので、もう店はやめた」という。

 この主人は面白い。屋敷を案内してもらいながら、これまでの経緯などを聞いた。何でも、サラリーマンを退職してから、東京の住宅街でうどん屋を開店し、京都の職人から出汁の取り方を教わるところから初めて、2005年には雑誌『大人の週末』で東京の美味い店の最高点を獲得。『散歩の達人』『dancyu』等で東京でとびきり旨い店に選ばれたという。何と!2011年には、一生添い遂げたい東京麺150店で巻頭トップを飾ったそうだ。TVにも度々紹介されたらしい。今になっては、どれほど美味しいうどんだったかを確かめようがないのが悔やまれる。

 仕方がないので、生麺のパックを2つ買ってきて、夕食に作って食べた。ツユの出汁は自己流だ。確かに麺は腰があり噛み締めると麦の香りが口に広がる。旨い!

 僕と同じ歳の主人には、隠居などと言わないでまたお店を再開するように頼んできたが、どうも当分、その気にはなりそうにもない。また、生麺を買いに行って、その都度、再開を促そうと思う。



2021年9月13日

観音めぐり

 先月末に訪れた美しい山里を再訪した。田圃の稲が実って収穫を迎える頃には、どんな景色になるかを楽しみにていたのだ。しかし、八郷盆地では大方の田圃で稲刈りが終わっているというのに、まだこの里では始まっていなかった。稲田に少し緑色が残っている。

 
 そこで近くの「坂本観音堂」を訪れた。ここには有名な「木造如意輪観音像」がある。どんな仏なのか写真を見せたいが、何しろ徹底した秘仏で昭和20年代に五来重教授が調査した時以来、誰も見ていないのだ。彼は「当地方の稀に見る鎌倉前期の優作で、笠間時朝寄進の笠間六体仏との関連も認められるものである。」「引き締まった頬、口元を引き下げた人間的な唇、半眼思惟、衣文の鋭い流線、重厚な体躯・・・・・半跏趺坐の不安定な姿勢によく均衡を与えている優作・・・」と極めて高く評価している。明治維新の時、この仏像は岩瀬の月山寺に移されたが、すると寺内に怪異なことがしばしば起こるようになり、また戻されたという曰く付きの仏像である。秘仏、怪異と謎めいた観音様である。ますます見たくなった!この写真正面の仏壇の扉を開ければ拝められるのだろうか?(笑)

  ついでにと言っては観音様に申し訳ないが、ここから北方に見える山の反対側、栃木県に通じる奈良駄峠を下った山裾に「小貫観音堂」がある。今では訪れる人もほとんどいない。こんな奥地なのに、立派な仏像が祀られ、昔は極彩色で飾られていたと思われる観音堂が建てられている。お堂の中をのぞいたら、立像の観音様の周りの壁には小さな像が並んでいる。十二神将だろうか?暗くてわからない。「坂本観音堂」もそうだが、昔の人の信仰の篤さに驚く。観音信仰の広がりと深さに驚く。ものすごいエネルギーを仏像と観音堂建立に注いだのだ。それは裏を返せば、それだけ生きるのが厳しくて危険に満ちていたということを物語っているのだろう。 






   今回、高峯山の周辺をおとずれて、やはり古代や中世の交通路は、富谷稲田線にそっていたのだと思うようになった。この沿線には、富谷観音、櫻川稲村神社、大日堂、そして坂本観音、鏡ヶ池の伝説などが点在している。また、地形的にも現在の50号線よりずっと平坦で東西を結んでいる。また、奈良駄峠は、今でこそ車での通行可否が不明だが、古代では主要交通路と交わり、茂木方面と岩瀬、笠間を結ぶ需要な峠だったのだろう。今度、古い資料にあたって調べてみよう。


2021年9月5日

秋が、もう直ぐそこまで。

 筑波山の中腹を歩いた。ヤマボウシ、ムラサキシキブ、キブシ、ゴンズイ、ヤマコウバシ、コナラやシラカシのドングリなどの果実もだいぶ膨らんで、「秋」がもう直ぐ近くまで来ているのを感じた。

ゴンズイの実、この後割れて黒い種子が現れる


このところ雨の日が多かったせいか、森の至る所にキノコが生えていた。薄暗い森の中で、真っ白いのや、真っ赤なキノコがよく目立つ。キノコは面妖なやつだ!どんなに可愛くて綺麗でも手を出さないほうがいい。


シロオニタケの仲間か?

どこからかいい匂いが漂ってくる。クサギの花だ。この後、赤のマントを着たブルーの美しい種子をつける。



まだ、アジサイが残っているのかと思って、近づいて見たらセンニンソウの花だった。今が花盛り。









2021年9月1日

雨の日の散歩

 八郷は雨の日こそ美しい!雨も小降りになったので、車を置いて半田の台地を散歩した。いろいろな作物の畑が広がり、道の脇には秋の花が咲いている。植物も農道も雨で濡れて光っている。遠くの山腹には、まだ雲がかかっている。あっ!こんなところに神社があった。誕生した子の命名札が貼ってある。

・・・ 誰とも会わない。辺りはシーンと静まり返っている。


















栗の収穫ももう直ぐだ










2021年8月29日

山里を訪ねた




  昨日、高峯山の南を走っていて、山に囲まれた奥に集落がありそうだという気がした。僕は、こういう場所に強く惹かれる。もしかしたら、現代の「隠れ里」かもしれないと(笑)。早速、Google Earthで探した。

 見つけたからには、居ても立っても居られない。今朝、早速、現地に向かった。この先、本当にこの道は続いているのだろうかと不安にかられながら細い山道を走った。暗い森の中にある峠を越えたら、突然、眼下に小さな集落が現れた。田んぼの稲が黄金色に輝いている。その中心に長屋門の大きな農家が点在している。美しい!こんな美しい里と出会うことは滅多にない。


 写真を撮るので、車から離れて民家の前を歩いていたら長屋門の中から声がする。挨拶したら、今、要らなくなった農道具や肥料を屋根裏にしまっているところだという。ここはどういうところかと聞いたら、95歳のおじいちゃんが元気ならいろいろ教えてあげられるのにと残念がっていた。昔、この地は北中村柳沢であったが、現在は桜川市になってしまったという。祖先は加賀からこの地に来たそうだ。元は4軒だけだったが、その後、新宅が増えて8軒になったという。何百年も、自家の周囲の棚田で米や野菜を作り、質素でひっそりとした暮らしを続けてきたのだろう。もう少しして、稲が実る頃は、また違った美しい風景になるだろうから、また訪れてみようと思う。









2021年8月28日

高峯の南麓



 先日、岩瀬の「櫻川磯部稲村神社」に行った時、宮司さんと古代(奈良、平安時代)には、羽黒近辺が交通の要衝であったかもしれないと話した。図らずも、今日、50号線の北側の高峯山の麓を走っていたら、その根拠らしい地点に出くわした。これだから、知らない田舎道を当てもなくウロウロするのは楽しい。そして、小さなものでも良い、何か発見があったら尚更だ。


 高峯山の南麓に位置する高台にあった十字の切り通しで、『大神台遺跡・大神駅家跡比定地』の案内板を見つけた。現在は畑になっているが、この台地からは縄文時代の土器や石器が多数採集されているそうだ。更に、ここ大神駅家(おおみわうまや)は、常陸国の国府(石岡)と下野国の国府(栃木市)の中間に位置しており、また、東に向かうと那珂川を超えて日立そして東北へ、南に向かうと、おそらく、羽黒から板敷峠を超えて八郷を横断して国府(石岡)に通じていたのだろう。古代では交通や文化の行き交う重要な地点だったのだ。今では、赤土の埃が舞い上がる畑が、ただ広がっているだけである。




案内板を読んだら、この付近には大蛇が多くいるので「大神(おおみわ)」という名前がついたと『常陸国風土記』に書かれているそうだ。付近に『八大龍王神』の石碑が建っていた。「八大龍王」といえば、護法の神で、元々は古代インドのナーガという半身半蛇の神である。「大神」と「八大龍王」、何か関係がありそうな、なさそうな・・・。こんなことを考えながら田舎道をのんびりと走るのは、実に楽しい。これだから自動車の走行距離はドンドン伸びる(笑)。








2021年8月25日

将門に導かれて

 簡単な昼食を旧大和村の『一期一会』で済ませた後、車を西に走らせた。以前から、近くの道路脇にある小社が気になっていたので立ち寄った。それは『后神社』といい、教育委員会の案内板によると、平将門は、一旦は平国香に勝利したものの、承平7年7月に叔父の平良兼等によって、后とその子はともに殺されたと書いてあるが、このへんのゴタゴタはよく分からない。この神社は、その将門の御前を祀ったものであるという。ご神体は五衣垂髪の女人木造(指定文化財)だそうだが、もちろん外からは見えない。

 更に、しばらく西に車を走らせた。何気なく、全く無意識に太い村道からそれて集落内の細い道に入り込んだら、その突きあたりに、また古びた案内板が現れた。僕はこういうのを無視できない。辺りは、少し荒れた感じの集落のはずれで、それは廃屋と放置された牛舎の間にあった。案内板には『御門御墓』とある。何と!この地は平将門の居館があった所と言われ、非業の死を遂げた将門の霊を恐れて五輪塔を建立して供養したものだという。この五輪塔は鎌倉時代初期のものだとわかっている。


 平将門が東国に新たな国を建設し、自らを「新皇」と称したので、それが居たところの意味で、この地を「帝(みかど)」、その後「御門」、そして現在は「三角」の文字を当てている。そして、その后を祀った神社があるところの現在の地名は、「木崎(きさき)」である。


 『御門御墓』を外部から訪れる人は、まずいないだろう。僕は、何故か「導かれる」ようにして、この二つの遺跡を訪ねた。でも、墓にはお賽銭と生花が供えてあった。千年以上も経たのに、まだまだ、地元の人にとっては将門の霊が生きている。西に向かうと、至る所で将門の亡霊と出会う(笑)。